いう呼び方も伝わっている。
第一の特長は、非常に老齢の活火山であることで、ホメーロスの詩には見えないが、ピンダロスの詩には紀元前四七六年の噴出についての叙述がある。古来噴出の確証あるものは約八十回で、その内、最も激烈を極めたものは紀元前に三回(三九六年、一二六年、一二二年)と紀元後に十四回(一一六九年、一三二九年、一五三七年、一六六九年、一六九三年、一七五五年、一七六六年、一七九二年、一八一二年、一八一九年、一八四三年、一八六五年、一八八六年、一八九二年)で、殊に十九世紀に入ってからが最も激烈を極めたというから、老いてますます旺んな山である。今世紀になってもすでに五回(一九〇七年、一九〇八年、一九一〇年、一九一一年、一九二三年)の噴出をしているから、油断のできない老山である。
登山の季節は六月から九月までで、春は雪崩《なだれ》があって危険で、冬は吹雪で警戒されることが多いそうだ。登山季節といえども、二千米以上の部分は嶮峻であり、それに火山灰が深くて登攀に困難だということだ。しかし、私たちの場合は、バスで五合目まで登り、其処の料亭《リストランテ》で食事をして帰って来たのだから、大きな顔をしてエトナに登ったともいえないわけだろう。
それでも登って見なければわからないものをいろいろ見ることができた。前にも言った如く、遠くから眺めると屹立した山のようであるのに、行って見るとまるで広い高原の上を通ってるようで、高山に登っているという感じがしない。それほど根を大きく張った山で、その高原の上を一周するバスが別に走っているが、そのルートは約一一三キロで、八時間を要するそうだ。私たちのはまっすぐに五合目まで登るのに、タオルミーナを朝の九時二十分に出て、目的地に着いたのは殆んど正午であった。登山の順路はカターニアを出発点とするようにできているが、私たちはそれを逆に行って、帰りにカターニアに下りた。
初めはエトナを一つの大きな土塊として遠く眺めていたが、いつしかそれが二つに分れ、三つに分れて、噴煙の出てるのは向って左の山の向側だということがわかって来た。麓の村々には DUCE NOI と記した大きな標板がところどころで見られた。イタリアの本土では到る所で見たものだが、シチリアでもムッソリーニに対する信頼は行き亘ってるものと見える。エトナの北寄の新らしい噴火口のある二つの山にはモンティ・ムッソリーニ、モンティ・ヴィットーリオ・エマヌエーレの名前が付いてるそうだ。
エトナには熔岩流が大小約二百あると聞いたが、私たちもその内の幾つかを横断した。熔岩流については浅間の鬼の押出を知ってるから特に珍らしくは感じなかったが、北へ東へと数多く流れているのには驚いた。通り過ぎた熔岩流を越して、遙かの下の方に小さい山々が青く重なり、その向うに美しい海が横たわってるのを見下すようになるまでには、幾つも森林地帯を通ったり、牧場を通ったりした。森林には濶葉樹の大木が多く、牧場には羊が群がっていた。道路は幅広く、よく舗装されて、諸所に地名と標高が記されてあった。モンテ・サン・レオ一一八二米、モンテ・リナッツィ一二六二米、モンテ・ソナ一三七二米、等々。
カパンニ・アツラというカフェ・リストランテの前に最後にバスは停まった。他にも一台バスが来て、部屋の中は遊覧客で一ぱいになった。皆思い思いの皿を注文して、まず腹をこしらえ、食後付近の原を歩いて見た。岩の間に菫やその他の小さい春の花が咲き出て、少し先の小高い所には雪が消え残って居り、真白なエトナの最高峰も手がとどきそうに近く見えた。しかし、エトナに登ってるつもりだったが、エトナは向側にあった。
帰りはマスカルチア、グラヴィナなどの村を過ぎた。沿道には葡萄畑があり、果樹園があり、花が咲き、新緑が萌え出て、のどかな情趣に溢れていた。
五
しかし、カターニアの町に入ると私は少からず失望した。カターニア(カタナ)はナクソスと共に紀元前八世紀から聞こえたイオニア人の植民都市であったにも拘らず、来て見ると平凡な近代都市で、歴史的には殆んど見るべき何物も遺っていない。そのわけを尋ねて見ると、昔から各民族の断え間なき争奪戦に曝されて、古くはドリス人に、アテナイ人に、カルタゴ人に、またローマ人に、ゴート人に更に、サラセン人に、ノルマン人に、と、次第に荒らされ、破壊され、それに加うるに、更に恐るべきエトナの熔岩流と大地震に襲われて壊滅に壊滅を重ね、殊に一六九三年の震災は壊滅を完成し、潰れ残った家屋は僅かに五戸に過ぎなかったという。しかし、それにも拘らず、人間の神経麻痺性と健忘症は驚くべきもので、廃墟の上にまた新らしい都市が建てられ、今では人口三十万、シチリア第二の大都市として、巨額の果物・硫黄を産出している。此の地は気候がよいので、昔は保養地として聞こえていたが、今日は賑やかな商業地として知られている。
バスは町の目貫の通をゆっくり通り、二三箇所に停まって見物したけれども、さして興味を惹くものとてはなかった。ドゥオモは十七世紀以来の、大学は十二世紀以来の歴史を持つそうだが、前者は震災で大部分破損し、後者は極めて最近の改築で感心しなかった。新らしいから感心しないのではなく、様式に見るべきものがないから感心できなかったのである。
ギリシア劇場とローマ風の円形競技場もあったというが、後者は近年漸く発掘され、前者はまだ熔岩層の下に埋没したままである。見たうちで注目に値すると思ったのは、新らしいものだけれども、ヴィラ・ベリーニの庭園だった。樹林が深々と繁って、緑の蔭が涼しく、花壇も美しく整理され、ベリーニを初め、カヴール、マッツィーニなどの胸像が数多く並んでいた。
ヴィンチェンコ・ベリーニ(前世紀の作曲家)とマリオ・ラピサルディ(ガリバルディの先輩)がカターニアの誇りとする人物らしいが、それよりも私にはホメーロスに次いでの大詩人といわれた合唱舞踊歌の完成者なるステーシコロス(ティーシアス)が晩年を此処で送って此処の土となったということの方に親しみが感じられた。しかし、それとても別にしるしがあるわけではなく、ただ伝説である。尤も、伝説の方が怪しげなしるしなどよりわれわれを信用させる場合も少くない。
伝説といえば、シチリアの諸所には神の時代から英雄の時代へかけての伝説がいろいろ遺っているが、カターニアからタオルミーナへ帰る間にもポリプ※[#小書き片仮名ヘ、1−6−86]ーモスの伝説で有名な地点を通った。それは現実のカターニアに対する私の失望を十分に償うに足りるものだった。
カターニアから鉄道線路――それは前の日に私たちが通った所だった――にくっ付いたり離れたりして、海岸を北の方へ走っていると、物の十キロも来たかと思う頃、中世風の一つの城砦《カステロ》が絵のような形で丘の上に聳えていた。その少し先の海の中に、ばら撤かれたように小岩が幾つも白波に洗われていた。ポリプ※[#小書き片仮名ヘ、1−6−86]ーモスの七つの島というのだそうだ。ポリプ※[#小書き片仮名ヘ、1−6−86]ーモスはキョクロープス(一つ目の巨人)たちの棟梁で、オデュセウスの一行を岩窟に封じ込んで食おうとしたが、一つきりない目を潰されてオデュセウスを取り逃がし、漕ぎ去る舟を目がけて盲滅法に丘の上から岩を投げかけた。その岩が七つ水面に出ているのだという。果して七つあったかどうか、実は通り過ぎてから気がついたので、数えるひまがなかった。
それから少し行った所に、アチスという小さい川があった。これもポリプ※[#小書き片仮名ヘ、1−6−86]ーモスに関係のある伝説の川で、ポリプ※[#小書き片仮名ヘ、1−6−86]ーモスは美しい妖精《ニンプヘ》のガラテアに懸想したが、ガラテアはアチス(アキス)という愛人があったので拒絶すると、巨人はアチスを殺そうとした。それでガラテアは彼を川に変形させてその愛をつづけた。
他愛もない童話のような伝説ではあるが、ホメーロスの美しい詩を読んだ者には、その伝説の場所を通ったことがわけもなくうれしくなる。何千年か以前にオデュセウスが十年間の漂泊をしていたのも、こういった明るい美しい海岸から海岸を伝って行ったのかと思うと、ホメーロスの幻想が急に生き返り、おぼろになった詩の世界へ久しぶりで引き戻されるように感じられた。
そういえば、もう通り過ぎてしまったが、カターニアを出ると間もなく、七つの島よりもずっと手前に、熔岩流の流れ込んだ小さい入江があった。今はオニナの入江と呼ばれているそうだが、古代からの言い伝えでは、オデュセウスが舟を着けた処だということになっている。それは、タオルミーナの手前の、昔のナクソスの遺跡を越した所にジャルディニの入江というのがあって、一八六〇年八月十八日にガリバルディの一行がカラブリアを指して船出した所だと教えられたのと同様、私にはそれも真実に思われた。一つは歴史の真実であるに対し、他は詩の真実であるというだけの差違である。
[#地から1字上げ](昭和十三年―十四年)
底本:「世界紀行文学全集 第六巻 イタリア、スイス編」修道社
1959(昭和34)年10月20日発行
底本の親本:「西洋見學」日本評論社
1941(昭和16)年9月10日発行
入力:門田裕志
校正:松永正敏
2007年8月9日作成
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