潰されてオデュセウスを取り逃がし、漕ぎ去る舟を目がけて盲滅法に丘の上から岩を投げかけた。その岩が七つ水面に出ているのだという。果して七つあったかどうか、実は通り過ぎてから気がついたので、数えるひまがなかった。
 それから少し行った所に、アチスという小さい川があった。これもポリプ※[#小書き片仮名ヘ、1−6−86]ーモスに関係のある伝説の川で、ポリプ※[#小書き片仮名ヘ、1−6−86]ーモスは美しい妖精《ニンプヘ》のガラテアに懸想したが、ガラテアはアチス(アキス)という愛人があったので拒絶すると、巨人はアチスを殺そうとした。それでガラテアは彼を川に変形させてその愛をつづけた。
 他愛もない童話のような伝説ではあるが、ホメーロスの美しい詩を読んだ者には、その伝説の場所を通ったことがわけもなくうれしくなる。何千年か以前にオデュセウスが十年間の漂泊をしていたのも、こういった明るい美しい海岸から海岸を伝って行ったのかと思うと、ホメーロスの幻想が急に生き返り、おぼろになった詩の世界へ久しぶりで引き戻されるように感じられた。
 そういえば、もう通り過ぎてしまったが、カターニアを出ると間もなく、七つの島よりもずっと手前に、熔岩流の流れ込んだ小さい入江があった。今はオニナの入江と呼ばれているそうだが、古代からの言い伝えでは、オデュセウスが舟を着けた処だということになっている。それは、タオルミーナの手前の、昔のナクソスの遺跡を越した所にジャルディニの入江というのがあって、一八六〇年八月十八日にガリバルディの一行がカラブリアを指して船出した所だと教えられたのと同様、私にはそれも真実に思われた。一つは歴史の真実であるに対し、他は詩の真実であるというだけの差違である。
[#地から1字上げ](昭和十三年―十四年)



底本:「世界紀行文学全集 第六巻 イタリア、スイス編」修道社
   1959(昭和34)年10月20日発行
底本の親本:「西洋見學」日本評論社
   1941(昭和16)年9月10日発行
入力:門田裕志
校正:松永正敏
2007年8月9日作成
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