てはならない。彼等は何を見ながら話してるのだろうか? 想像を逞しうすることが許されるならば、彼等は今アムステルダムの市会議事堂に集まってるのだから、その壁板の反対の側に書かれてある格言に目をやってるのではなかろうか? 其処にはオランダの商業を当時世界的に最も信用すべき状態にまで高めた格言が記されてあった。「明確に示された事に於いては約束を竪く守れ。正直に生活せよ。情実によって判断を誤る勿れ。」これがその言葉だった。この精神がオランダの市民を高潔にし、オランダの交易を信用あるものとした。殊に毛織類の取引はオランダが世界で優位を占めていたから、その評議員たちは、取りも直さず、オランダの実業界を代表する名士たちでなければならなかった。
 そう思って見ると、この画は市民生活の道義的最高精神を主題としたもので、恐らくレンブラントの後期に於いて最も熱情を罩《こ》めて描いた物の一つであろう。新興オランダの市民意識のほかに、北方人・新教徒としての民族的社会的意識も強く感じられる。結局は彼の研究題目なる「人間」の群像を描いたのであるが、そういった気質に特長づけられた「人間」を描いたのである。ハーグの「解剖講義」を描いてからすでに三十一年、「夜警」を描いてからでさえすでに十九年を経過している。それだけ画家の技術は円熟し、性格透視の力量が深まっているのは当然というべきであろう。

    七

 オランダで見たレンブラントは大作と組合員肖像画がおもなものだったから、私の感想も自然その方面のものに制限されたが、しかし、私一個の趣味でいうならば、レンブラントの最大の特色は「人間」研究を目的とした個人的肖像画に一番よく現れているように思える。殊に自画像と近親者(息子ティトゥス、妻サスキア、及びヘンドリキエ)の肖像に。
 というのも、つまりは、彼が「人間」の研究者であったからだと思う。人間の中でも近親者は一番よく理解していた筈であり、更に彼自身をば彼が一番よく理解していた筈であるから、従って自画像が特によくできてるのではあるまいかと思う。考えて見ると、彼がライデンの風車の下の貧しい家の片隅で描き始めたのも彼自身の顔と近親者(その頃は父と母と妹)の顔だったが、それを死ぬ間際まで飽きることなく描きつづけたというのも、まことに驚くべき不退転の精魂ではあった。
 その頃の他の画家たちと同じく、レンブラン
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