、思い切って辞職もし得ないで来た彼の運命のみじめさを幾度涙ぐんだか知れないのであった。
 だから最近に栄転した前署長のお情けで、東京郊外の平和な別荘地になっている、このK村の駐在所に廻わされると、受持区域に住んでいる知名の人々からの附届けで、やっと息が吐《つ》けるようになった事をドレ位、感謝していたことか。その巡廻の一足一足|毎《ごと》に……この地域に事なかれかし……とドンナに誠意を籠めて祈ったことか。そうして又、それが泥棒一つ捕《つか》まえた経験のない無能な彼の、心中からの……ただ一筋の悲しい願いでなければならぬ事を、彼自身に何度、自覚したことか。
 しかし睦田巡査はまだ二十歩と行かないうちに、タッタ今踏み付けた奇妙な吸殻の事をキレイに忘れてしまっていた。まん丸い背中を一層丸くして、外套の頭巾を深々と引下して、薄暗い角燈の光りの中に、どこまでもどこまでも続くコンクリート壁や、煉瓦塀や、生垣の間をトボトボと歩いて行った。
 寒い寒い星の夜《よ》であった。

 その翌《あく》る朝であった。
 彼が踏み躙《にじ》って行った幸運が、ソレだけの悪運となって彼の頭上に落ちかかって来たのは……。
 彼の受持区域内でも、屈指の富豪と眼指《めざ》されている倉川男爵家の別邸に二人組の強盗が入って、若い、美しい夫人と小間使を絞殺し、一人の書生に重傷を負わせ、夫人所有の貴金属、宝石類と、現金二百余円を奪い取って逃走した事が、夜明けまで震えていた台所女中によって、分署まで報告された。そうしてその兇行の推定時刻が、彼の巡廻時刻とピッタリ一致したのであった。
 電話で「巡廻中異状はなかったか」と尋ねられた時に、何の気もなく「ハイ」と答えた彼は、すぐにK駐在所から一里ばかりを距《へだ》たったK分署に呼び付けられて、居残っていた法学士の分署長から、眼の玉の飛び出るほど叱責されなければならなかった。そうして、
「見舞に行くには及ばぬ。君のような人間が現場《げんじょう》に立会ったとて役に立つものじゃない。留守をして電話でも聞いていたまえ」
 と小使の面前で罵倒されたのであった。
 署長以下の全員が出動したあとで、ガランとした室《へや》の真中の大火鉢に椅子を寄せて屈《かが》まり込んだ睦田巡査は、その青ざめた顔に幾度も幾度も涙を流した。そうして電話がかかるたんびに水洟《みずっぱな》をススリ上げススリ上げ立
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