室の扉の方へ逃げ出そうとしたが、患者はヒンガラ眼のまま気が付いたらしく、片手をあげて制し止めたので、それも出来なくなった。そうして患者が無言のまま指し示すまにまに元の肱掛椅子の中へ、オッカナビックリ腰を卸させられたのであった。
 それを見ると患者は安心したらしかった。片手を幽霊のようにブラ下げたままフラフラとパーポン[#「パーポン」は太字]氏の前に蹌踉《よろ》めき寄って来て、心持ちだけお辞儀をするようにグラグラと頭を下げた。そうして鼻から下を蔽うたハンカチ[#「ハンカチ」は太字]を取り除《の》けて、恐ろしく大きく……河馬のようにアングリと開いた口を指して見せながら、何やら云いたげに眼を白黒さしていたが、忽ち、
「アウアウアウアウアウ……」
 と奇声を発したと思うと、又もはげしい嘔気《はきけ》に襲われたと見えて、
「ゲエゲエゲエ。ガワガワガワガワ」
 と夥《おびただ》しい騒音を立てた。口のまわりをハンカチ[#「ハンカチ」は太字]でシッカリと押え付けて、額から滝のように汗を流し初めるのであった。
 ドクトル[#「ドクトル」は太字]、パーポン[#「パーポン」は太字]氏はその顔を凝視したまま、一寸《ちょっと》の間呆気に取られていたが、間もなく訳がわかったと見えて、鼻の穴から長い呼吸を吐き出した。そうしてようよう血色を恢復した顔を平手でクルクルと撫でまわすと、腹を抱えて笑い出した。
「アハハハハハハ。そうですかそうですか。やっとわかりました。貴方は顎を外されたのですね。……それで嘔気が付いたのですね」
 患者は懸命に苦しみながら何度も何度もうなずいた。ドクトル[#「ドクトル」は太字]も一所《いっしょ》にうなずいた。
「そうですかそうですか、アハハハハハ。イヤ……ビックリしましたよ。あなたのようにヒドイ嘔気が付いた方は初めて見たものですからね。アハアハアハアハ。イヤ。笑っては失礼でしたね。サア椅子に腰をお掛けなさい……サアどうぞ……」
 先刻から患者のうしろにポカンと突立っていた看護婦も、この時やっと安心したらしく、小さなタメ息をしいしい患者の尻に椅子を当てがった。
「サア。モットこっちへお寄りなさい。貴方はトテモ幸運な方ですよ。顎をはめる手術にかけては憚《はばか》りながらこの私は世界一の名人を以て自ら任じている者ですからね。……イヤ。冗談ではありません。タッタ今その証拠をお眼
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