でもする事か、咎め立てするとは心外千万な主君じゃ。しかもそのお咎めを諫めもせずに、オメオメと承って来る大目付も大目付じゃ。当藩に武辺の心懸の者は居《お》らんと見える。見離されても名残りはないと云うておこうか。御一統の御小言は昌秋お受け出来ませぬわい。ハッハッハッハッ……」
「……………」
「塙代家の禁裡馬術の名誉は薩藩にも聞こえている筈じゃ。身共と孫の扶持に事は欠くまい。薩州は大藩じゃからのう。三百石や五百石では恩にも着せまいてや。ハッハッハッ。大坪本流の馬術も当藩には残らぬ事になろうが、ハッハッハッ。コレ与一……薩州へ行こうのう。薩州は馬の本場じゃ。見事な馬ばかりじゃからのう。乗りに行こうて……のう。自宅《うち》の鹿毛《かげ》と青にその方の好きなあの金覆輪《きんぷくりん》の鞍置いて飛ばすれば、続く追っ手は当藩には居《お》らぬ筈じゃ。明後日の今頃は三太郎峠を越えておろうぞ……サ……行こう……立たぬか……コレ与一……立てと言うに……」
 六尺豊かの与九郎に引っ立てられながら、孫の与一は立とうともしなかった。紋付の袖を顔に当ててシクシクとシャクリ上げていた。
「……ヤア……そちは泣いておるな。ハハ。福岡を去るのが、それ程に名残り惜しいか。フフ。小供じゃのう。四書五経の素読は済んでも武士の意気地は解らぬと見える。ハハ」
「……………」
「……コレ……祖父の命令《いいつけ》じゃ。立たぬか。伯父様や伯母様方に御暇《おいとま》乞いをせぬか。今生《こんじょう》のお別れをせぬか。万一この縺《もつ》れによって、黒田と島津の手切れにも相成れば弓矢の間にお眼にかかるかも知れぬと、今のうちに御挨拶をしておかぬか、ハッハッハッ。立て立て……。サッ……立ていッ……」
 大力の昌秋に引っ立てられて、与一はバッタリと横倒しになりながら片手を突いた。恨めしげに祖父の顔を見上げたが、唇をキッと噛むと、ムックリと起き直って、手強く祖父の手を振りほどいた。突《つ》と立上ってバラバラとお縁側から庭先へ飛び降りた。肩上の付いた紋服、小倉の馬乗袴《うまのりばかま》、小さな白足袋が、山茶花《さざんか》の植込みの間に消え込んだ。
「コレッ。与一どこへ行く」
 と祖父の昌秋が、縁側に走り出た時、与一はもう、足袋|跣足《はだし》のまま西村家裏手の厩《うまや》へ駈け込んでいた。
「ヤレ坊様《ぼんさま》……あぶない……」
 と抱き止めにかかる厩|仲間《ちゅうげん》を、
「エイッ……」
 と一《ひ》と当て、十三四とは思えぬ拳《こぶし》の冴えに水月《みずおち》を詰められて、屈強の仲間がウムムと尻餅を突いた。その隙に藁庖丁の上に懸けて在る手綱を外して、馬塞棒《ませぼう》の下を潜って、驚く赤馬をドウドウと制しながら、眼にも止まらぬ早業で轡《くつわ》を噛ませた。馬塞棒《ませぼう》を取払って、裸馬へヒラリと飛乗ると、頭を下げながら手綱|短《みじか》にドウドウドウドウと厩を出た。裏庭から横露地を玄関前へタッタッタッと乗出して、往来へ出るや否や左へ一曲り、
「ハヨ――ッ」
 と言う子供声、高やかに、早や蹄の音も聞こえなくなってしまった。

       四

 お城の南、追廻《おいまわし》門、汐見|櫓《やぐら》を包む大森林と、深い、広い蓮堀を隔てた馬場先、蓮池、六本松、大体山の一帯は青い空の下に向い合って櫨《はぜ》、楓《かえで》、紅葉の色を競っていた。
 その蓮池の山蔭《やまかげ》。塙代与九郎宅の奥庭、落葉《らくよう》を一パイに沈めた泉水に近く、樫と赤松に囲まれた離れ座敷は、広島風の能古萱葺《のこかやぶき》、網代《あじろ》の杉天井、真竹《まだけ》瓦の四方縁、茶室好みの水口を揃えて、青銅の釣燈籠、高取焼大手水鉢の配りなぞ、数寄者を驚かす凝《こ》った一構え……如何にも三百五十石の馬廻《うままわり》格には過ぎた風情《ふぜい》であった。
 その西側の細骨障子には黄色い夕陽が長閑《のどか》に、一パイにあたっていた。ピッタリと閉切《しめき》ったその障子の内側の黒檀縁《こくたんぶち》の炉の傍《そば》に、花鳥模様の長崎|毛氈《もうせん》を敷いて、二人の若い女が、白い、ふくよかな両脚を長々と投出しながら、ギヤマンの切子鉢に盛上げた無花果《いちじく》を舐《しゃぶ》っていた。二人とも御守殿風の長笄《ながこうがい》を横すじかいに崩《くず》し傾けて、緋緞子《ひどんす》揃いの長襦袢の襟元を乳の下まで白々とはだけたダラシなさ。最前から欠伸《あくび》を繰返し繰返し不承不承に口を動かしている風情であった。仄《ほの》暗い奥の十畳の座敷には、昨夜《ゆうべ》のままの夜具が乱れ重なって、その向うの開き放した四尺|縁《えん》には、行燈、茶器、杯盤などが狼藉と押し出されている。
「妾《わたし》……何やら胸騒ぎがする」
 と年上のお八代が、気弱ら
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