悪戯《いたずら》をはじめる。そいつが心臓の出口の大動脈の附根に引っかかると二年か三年か経つうちにそこいらの血管がブヨブヨに弱くなって来る。本人がチットモ気付かない間にその部分の血管が、心臓から押出される血液の圧力に堪えかねて、少しずつ少しずつゴム風船のように膨れ上り初める。そいつがだんだん大きくなって肋骨《ろっこつ》の内側をコスり削って咳嗽《がいそう》を連発さしたり、声帯に伝わる神経を圧迫して声を嗄《か》らしたりし初めるのであるが、それでも本人はまだ気付かない事がある。医師も呼吸器病ぐらいに考えて呑気に構えているうちに、とうとうその瘤《こぶ》の頭が紙みたいに薄くなるまで膨れて来て、やがてボカンと破裂する。肋骨の外へパンクして胸を血だらけにして引っくり返る事もあるが、内側へパンクするとそのまま、激烈な腹膜炎を起す。さもなくとも頭の方へ血を送っている管《パイプ》の根本が破れるんだから脳髄が一ペンに参って、卒中よりも迅速に斃《たお》れてしまうという世にも恐ろしいのがこの大動脈瘤である。しかも極めて早期に発見されたもので二年。遅く発見されたものだと一二週間の寿命しかないのが今までのレコードである。滅多にない病気ではあるが、発見されたが最後、如何なる名医でも手段の施しようがない。
「……兄さんのは……非常に……ステキに大きいのです。こんな大きいのは見た事がないって内藤先生も云っておられました」
 弟は青褪めた顔でオズオズと笑った。両眼に溜まっていた涙がハラハラと両頬を伝わった。
 私は熱に浮かされたような気持になった。魂が肉体から離れたような気持で笑い笑い云った。
「アハハハハ。済まん済まん。余計な心配かけて済まん。俺の動脈瘤は満洲直輸入だ。大原大将閣下の護衛で哈爾賓《ハルピン》に行った時に、露助《ろすけ》の女から貰った病毒に違いないのだよ。アハハハ。自業自得だ。……しかし……よく云ってくれた」
 弟はモウ立っている事が出来なくなったらしい。私の頸に一層深く両手を捲付けてオロオロと泣出した。
「馬鹿。泣く奴があるか。見っともない」
 私は寝台の枕の下から白い封筒に入れた札束を取出した。念のため数えてみると十円紙幣が七十枚ある。その中から四十枚だけ数えて新聞紙に包んだ。
「いいか。ここに四百円ある。これは俺達が病気した時の用心に貯金しといた金だ。俺の葬式をした残りはお前に遣る。大寺教授と相談してどこかの病院に奉公しろ。……な……わかったか」
 弟は私が押付けた紙幣の包みを手にもとらずに大声をあげた。
「いやですいやです。兄さん。死んじゃ厭です。……生きて……生きてて下さい生きてて下さい……」
 私はとうとう混乱してしまった。セグリ上げて来る涙を奥歯で噛締《かみし》めた。静かに弟の両腕を引離して寝台の上に座り直した。
「馬鹿……俺が自殺でもすると思っているのか。馬鹿……俺は一週間でも一時間でもいい、残っている生命《いのち》を最後の最後の一秒までも大切に使うんだ。それよりも早く大寺先生の処へ行って御礼を云って来い。お蔭で癌じゃない事がわかって、兄貴が喜んでおりますと、そう云って来い。……直ぐに行って来い」
「ハイ……」
 弟は柔順《すなお》にうなずいた。寝台の枕元に掛けたタオルに薬鑵の湯を器用に流しかけて、涙に汚れた顔をゴシゴシと拭い初めた。
「それから何でも冷静にするんだぞ。どんな事があっても騒ぐ事はならんぞ」
「ハイ……」
 弟は湯気の立つタオルの中でうなずいた。

 弟が出て行くと直ぐに私は大急行で寝巻を脱いで、永年着古した背広服に着かえた。手廻りの品々をバスケットに詰めた。夜具を丸めて大風呂敷に包んだ。その風呂敷の上にピンで名刺を止めて万年筆で小さく書いた。
「俺は行衛《ゆくえ》を晦《くら》ます。死際《しにぎわ》に一仕事したいからだ。どんな事があっても騒ぐなよ。俺の生命《いのち》がけの仕事を邪魔するなよ」

 大寺教授の自宅に「退院御礼」と書いた菓子箱を置いて博多駅前のポストに学部長宛の辞表を投込んだ私は、間もなく着いた上りの急行列車に風呂敷包を一つ提《さ》げて乗込んだ。幸い識合《しりあ》いの者に一人も出会わなかったのでホッとした。敏感な弟も、こうした私の最後の目的ばかりは察し得なかったと見える。
 私の最後の目的というのは一つの復讐であった。
 私には義理の伯父《おじ》が一人ある。名前を云ったら知っている人もあるだろう。須婆田車六《すわだしゃろく》といって日印協会の理事だ。その伯父は目下奇術師で、朝野の紳士を散々飜弄した揚句、行衛を晦《くら》ましている毒婦、雲月斎|玉兎《ぎょくと》女史とくっ付き合って、目下、銀座のどこかで素晴らしい人肉売買をやっている事を私はチャント知っている。しかも巨万の富を貯えて印度《インド》貿易に関する限り非
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