が勃発致しました。襲撃致しましたのは過般銀座銀行を襲撃して満都を驚かしました国粋団の一味で、カフェー・クロコダイルの入口に立っておりました印度人シャイロック・スパダ氏を射殺し、尚も奥へ乱入しようと致しましたが、急を聞いて馳付《かけつ》けた警官のために三人ほど捕縛されてしまいました。
 同時に該《がい》カフェー・クロコダイルの醜い営業振りが悉く当局の手によって暴露される事になりましたが、詳細な点はまだ、発表を停められておりますから悪しからず御諒察を願います。
 但し、ここに一つの不思議な事と申しまするのは、その愛国団の一味のほかに今一人、一人の兇漢が、カフェー・クロコダイルの中に忍び込んでいたことで御座います。その兇漢は、混雑に紛れて同カフェーの二階に馳上り、二階事務室に潜んでいたスパダ氏の情人、有名な雲月斎玉兎女史を刺殺して地下道から逃亡しました。しかも最も不思議な事に、その怪漢の悪戯《いたずら》でもございましょうか、スパダ氏の死体と玉兎女史の死骸が警官の出動と同時にかき消す如く消え失せました事で、そのために当局では事件の真相が判明せず、些からず困惑している模様で御座います。
 しかし、その兇徒の人相風采は目撃者の説明によって詳細判明しておりますから遅くも明夜までには逮捕される見込みで目下東京市中は非常警戒網が張られているところであります。……以上……」
 私はふらふらと真暗い材木|積《づみ》の蔭からソロソロと歩き出して、向側の車道に片足をかけようとした。この時、左の方から疾走して来たパッカードのオープンが烈しい警笛を鳴らしながら、行きすぎた。危く轢《ひ》かれ損なった私は慌てて歩道の上に飛び上って振り返ったが、思わずアッと声を揚げた。
 そのパッカードの中に黄色いルームに照らされて並んでいたのは疑いもなく私の弟と、アダリーではなかったか。しかも弟はリュウとした紺と茶縞の――彼の好きだと云っていた柄のサックコートに青光りするカンカン帽を冠っていた。アダリーは小さな黒い鉄兜《てつかぶと》形の婦人帽に灰色の皮膚をクッキリと際立《きわだ》たせた卵色の散歩服、白靴下、白靴。二人とも胸に揃いの黄金色のバラの花をさしていたではないか。そうして二人とも驚いた風で私を見ると同時に互いに相手の膝を押えて制し合った。
 ああ、私が九州を出て来て以来の出来事は何もかも一続きの悪夢の連続ではないか知らん。私は依然として東海道線の寝台車の中に睡っているのじゃないかしらん。否、弟が私の動脈瘤を宣告した事からして、私が常々心配していた事が夢となって現われたものに過ぎないので、私はまだQ大の十一号病室の寝台に横たわったまま、こうして悪夢から醒め得ないで藻掻《もが》いているのじゃないかしらん。
 私は何が何やらわからなくなったままスタスタと歩き出した。同時に左右の踵《かかと》に処々靴ズレが出来たらしくヒリヒリと痛みだしたのを感じた。
 だが、私は東京市中の交番の配置がこれ程までに巧妙に出来ていようとは思わなかった。
 私は曾て長い事、東京に住んでいたし、東京の裏面にもかなり精通しているつもりであるが、交番の前を通り抜けずに東京市外に出る事が絶対に不可能である事を、この時に生れて初めて知った。それ程に東京市中の交番の配置は巧妙に出来ているのであった。
 私は行く先々に白い交番が新しく新しく出来て行くのじゃないかと思い思い、抜け裏を潜ったり交番の前を電車の陰になって走ったりして、ヤッとの思いで両国の川縁《かわぶち》まで来た。もうここから先へは一歩も行けない。行けば橋の袂の交番にぶつかる。河岸から小舟を雇っても水上署の眼を逃れる事は出来ない。多分河口には鋭い眼が光っている事であろう。
 私は進退|谷《きわ》まった。目的を遂げずに罪人となって町を逍迷《さまよ》った揚句《あげく》行く先がなくなるとは何という不運な私であろう。
 私は悠々と流るる河の水を眺めた。星の光りと、灯の明《あかり》と入り乱れて夢のように美しい。コンナ時に人間はふいと死ぬ気になるものか……と思いながら……。
「旦那。行きますか」
 不意に私の背後《うしろ》で柔和な男のような声がしたので私はびっくりして振返った。美事な流線型の箱自動車が待っている。
 私は黙って飛乗ったが、乗ってみると驚いた。運転手は女で、粗い縞の鳥打帽。バックミラー越しにチラリと見えたその下に私と同じの黒色鏡がかかって、ヤモリ色をしているその顔が私をチラリとニッコリと笑った。
「ドチラへ参りましょうか」
「どこでもいい、郊外へ出てくれ」
「エッ郊外……」
 女運転手が可愛い眉をひそめた。どこかで見たような女だとは思ったが、この時はどうしても思い出せなかった。
「郊外は駄目なのかい」
「いいえ。何ですか、きょうは銀座で騒ぎがありましたの
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