ト鍵穴に眼を当てた。
 患者控室は十畳ばかりのリノリウム張りであった。そのまん中には、薄暗い十燭の電燈がブラ下がっていたが、その下に据えられた大火鉢に近く、二人の男が長椅子を引き寄せてさし向いになりながら股火《またび》をしているのであった。
 扉《ドア》に背を向けているのは若い院長の健策で、糊《のり》の利《き》いた診察服の前をはだけて、質素な黒|羅紗《らしゃ》のチョッキと、ズボンを露わしている。背丈はあまり高くないが、その胸高に組んだ逞ましい腕や、怒った肩や、モシャモシャした頭や、健康そのもののように赤光りする顔つきは、まだ純然たる書生|型《タイプ》で、院長らしい気取った態度は微塵《みじん》もない。ウッカリすると柔道かボートの現役選手に見られそうな風采である。
 これに反して向い合った男は、蒼黒く肥った、背の高い、堂々たる風采のイガ栗頭であった。四十代に見える、鼻すじの通った貴族的な顔に、ロイド式の大きな黒眼鏡をかけて、上等の駱駝《らくだ》の襯衣《シャツ》を二枚重ねた上から、青縞の八反の褞袍《どてら》を着ているが、首のまわりにクッキリと白くカラのあとが残っているのが何となく意気に見える。……もう久しく……正月の初め頃から、この病院の特等室に寝起きしている、黒木繁という患者で、元来欧洲航路のカーゴボートの一等運転手《チーフメート》であったのが肺尖《はいせん》を患《わずら》った揚句《あげく》、この病院の新聞広告を見て静養しに来たものだそうである。東京育ちと名乗るだけに、金づかいが綺麗なばかりでなく、物ごしが上品で、見聞が広いために、いつとなく若い院長と懇意になって、無二の話相手にされているのであった。
 二人の間にプープーと湯気を吹いているアルミの大薬鑵《おおやかん》や、外の雪をチラチラと透かしながら一面に水滴《しずく》をしたたらしている硝子《ガラス》窓は、二人が長い間話し込んでいる事を証明していた。しかも、その話の興味はかなりに高潮しているらしく、健策は長椅子に背を凭《も》たせて、冷然と腕を組んだまま……又、黒木はその黒眼鏡をかけた魚のように無表情な顔を、火鉢の上にさし出したまま、双方睨み合いの姿で、緊張した沈黙に陥っているのであったが、やがて、黒木が固く結んでいた唇を開くと、相手の顔を見詰めたまま、長い溜息を一つした。そうしてポッツリと独言のように、
「……復讐……」
 と云った。すると健策は、その言葉を待ちかねていたかのように大きく、一ツうなずいた……が、間もなく何かしらパッと赤面しながら微苦笑を浮かべた。
「……そうなんです……品夫は親の讐敵《かたき》を討ちたいから、今|暫《しばら》く結婚を延期してくれと云うのです。……あんまり馬鹿馬鹿しい云い草なので、実は僕も面喰っているのですがね……ハハハハハ」
 黒木はしかし笑わなかった。なおも健策の顔を凝視しながら、躊躇《ちゅうちょ》しいしい問うた。
「……ヘエ……しかし、それには何か深い理由《わけ》がおありになるでしょう?」
「ええ……それは、あるといえば在るようなものです。貴方《あなた》のように世間を広く渡っておられる方に、その理由《わけ》というのを聞いて頂いたら、何か適当な御意見が聞かれはしまいかと思って、実はお話しするんですがね……ほかに相談相手も無いしするもんですから……」
「ヘエ……私で宜《よろ》しければですが……しかし、そんな立ち入った事を……」
「構いませんとも……誰も聞いている者はありませんから……ほかでもありません。……今もお話しする通り、品夫と僕の事は、死んだ養父《ちち》の玄洋が、もうズット前から決定《とりきめ》ていましたので、親類連中とも話し合って、去年の暮に式を挙げるばかりになっていたのが、養父《ちち》の病気でツイ延び延びになってしまったんです。……それで、養父《ちち》が亡くなりますと、正月の十一日でしたが……三七日の法事の時に、親類たちと相談をしまして、四十九日の法事が済んだら、間もなく式を挙げる事に決定したのですが、それを品夫が聞きますと、意外にも、頑強な反対論を持ち出しましてね……今までは別に異存も無いらしかったのですが……」
「ヘエ……妙ですな。それは……」
「エエ……妙なんです……。つまり養父《ちち》の百箇日が来るまで遠慮したいと云うので……そのうちには品夫の実父の二十一回忌も来るしする事だから、そんな法事をスッカリ済ましてから、ゆっくりと式を挙げたいと云うのです」
「成る程……それなら御無理もないかも知れませんね……。初《うぶ》なお嬢さんは何となく結婚を怖がられるものですから」
 健策は又も耳のつけ根まで赤くなった。
「……エエ……それは僕も知っています。しかし、そういう品夫の態度が恐しく真剣なので、僕はすこし気にかかりましてね。何となくトンチ
前へ 次へ
全14ページ中2ページ目


小説の先頭へ
文字数選び直し
夢野 久作 の一覧に戻る
作家の選択に戻る
◆作家・作品検索◆
トップページ 登録 ご利用方法 ログイン
携帯用掲示板レンタル
携帯キャッシング