女はホントウに忙しいのであった。
 近いうちに彼女と式を挙げる筈《はず》になっている藤沢家の養子で、前院長の甥《おい》に当る健策という医学士は、昨年の暮に、養父の玄洋《げんよう》氏が急性肺炎で死亡すると間もなく、大学の研究を中止して帰って来たのであったが、なかなかの元気者で、盛んに広告をして患者を殖やす上に、何から何まで大学式のキチョウメンな遣《や》り方をするので、その忙しさといったら無かった。その中《うち》でも薬局と会計の仕事だけは、他人に任せない家風だったので、前《ぜん》の院長の時から引き続いて、品夫がタッタ一人で引き受けているのであったが、田舎の女学校出の彼女にとっては、独逸《ドイツ》語の処方箋を読み分ける事からして容易ならぬ骨折りで、寧《むし》ろ超人間的の仕事といってもいい位であった。
 しかし、そのうちに彼女はヤット仕事を終った。新薬の広告ビラを板の上に綴じ付けて、会計簿の上にキチンと置くと、ホッと溜息をしながら眼をあげて、正面の薬戸棚の間に懸かっている大きなボンボン時計を見た。その瞬間に時計は、彼女のこの上もない親切な伴侶ででもあるかのように、十一時の第一点を打ち出した。
 その音が鳴りおわるまで彼女は、机の上にあらわな両腕を投げ出して、ウットリと眼を据えていた。唇をすこし開いたまま……そうして時計の音が一つ一つに室の中を渦巻いて、又、もとの真鍮《しんちゅう》の振り子の蔭に消え込んでしまうと、彼女は頭を使い切ってしまった人のように、両手を顔に当ててグッタリとなってしまった。
 けれども、それはホンの一分か二分の間であった。……どこか隔たった室で話しているらしい男の声が、廊下に面した扉《ドア》の間からホソボソと沁《し》み込んで来るうちに……
 ……品夫……
 ……復讐……
 ……という二つの言葉が偶然のように相前後してハッキリと響いて来ると、彼女はパッと顔を上げた。アヤツリ[#「アヤツリ」に傍点]人形のように真正面を見据えて、何ともいえない怯《おび》えた表情をしながら、全身をヒッソリと硬ばらせたようであったが、やがて大急ぎで足下の反射ストーブを消して、頭の上にゆらめく百|燭光《しょっこう》のスイッチを注意深くひねると、真暗《まっくら》になった薬戸棚の間を音もなく廊下に辷《すべ》り出た。やはり真暗な玄関を隔てた向側に在る、患者控室の扉《ドア》に近づいて、ソッ
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