歩を進めて、すべての男女の鼻が義務教育終了程度、中等学校程度、専門学校程度、学士、博士、大博士程度とそれぞれ高さが違って行く位になったら、世界の文運はどれ位進展するか知れますまい。
 ところが実際から見るとこんな事例は先ず認め難いのであります。それどころか却《かえ》って正反対の現象がのべたらに上《のぼ》って来るのであります。西洋人は生れながらにして日本人よりも学者という訳ではありませぬ。ニグロの中にも印伊《インイ》人を凌《しの》ぐ学者がいるのであります。些くともこれは大勢同志を比較した統計で、ふだん出合頭《であいがしら》に鼻の高し低しを見てその人間の文化程度を測定するのは大間違いの初まりではあるまいかと考えられます。
 尤も一方にこんな事実も多少はあり得ないと限らないのであります。
 元来自分の鼻の恰好というものは存外に気にかかるものでありまして、一度鏡で見ておきますとどうかした時によく思い出すものであります。威勢のいい獅子鼻なぞを持っている人は、自分の鼻に対してもじっとしておられない場合が無いとも限らない。他人でも初対面の時なぞは一寸頼もしそうな鼻に思えて、ついおだてて見る気になる。一方不景気な抓み鼻を持っている人は、何だか顔を出しても出し栄《ばえ》がしないような気がするし、他人も目星をつけないままについ引込思案になるような事がないとも云えませぬ。
 ところでこれが何しろ長い間の事でありますから、チョイチョイそんな気になっているうちには幾分性格にも差し響いて来る。つまり自分の鼻の恰好に感化を受けるという事も全く無いとは保障出来ないのであります。これは顔付でも同様で、多少共にこの傾向を持った人が存外多いものではないかと考えられます。
 しかしこれは何と云っても愚かな話で、何も自分の鼻の恰好に義理を立てて余計な苦労を求める必要はあるまいと考えられます。持って生まれた根性と持って生まれた鼻の恰好とは、偶然に一致していない限り全く無関係なものであります。いくら鼻に義理を立てようとしても、本心に無い事である限り、そうそうは立て切れるものであるまいと思われます。
 事実上その例証はいくらでもあります。
 高利貸のような凄い鼻を持っている人でも交際《つきあ》って見ると存外無欲な人であったり、チョイとした愛嬌タップリの鼻の持主でも意想外に兇暴残忍な奴がいたりします。高徳な人の鼻の穴が正面から底まで見えたり、下司《げす》張った奴の鼻の恰好が芝居の殿様のようであったりするといったような実例はザラにあります。「人は見かけに依らぬもの」という格言が鼻にも通用するものであるならば、この格言の出来た理由の一つにこんな実例も加えて決して差し支《つか》えあるまいと思われる程、左様に多いのであります。
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その人の先天的もしくは後天的の性格と鼻の恰好との間にはこれと云って取り立てる程の関係はない。
鼻の恰好から来る感じをその人の性格その他の表現と見るのは間違いと断定して大過は無い。
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 こうした判断のしかたは非常な危険を伴うものである。
 という事はここまで研究して参りますと一目瞭然するのであります。

     鼻と諦め
       ――鼻の静的表現(三)

 以上は人体に於ける鼻の位置、高低、恰好等から見た鼻の表現の研究でありますが、この種の表現は元来固定的|且《か》つ先天的なもので、人間の力で変化させる事は先ず出来ないものとなっております。蓮切鼻の人は死ぬまで蓮切鼻でいる。希臘《ギリシャ》型のを授かった人は睡《ねむ》っている間も希臘型というのが原則として認められております。
 そのために又ここに一つの鼻の表現に対して大きな誤解を持っている人が頗《すこぶ》る多い事になって来ております。
 即ち鼻は絶対に静的なもので、眼や口なぞのように動的な表現力は全然持っていない。耳と同様に一種の飾りに過ぎぬものと昔から認められている事であります。逆に云えば、人間の意志や感情又は性格なぞいうものは何の影響をも鼻に与え得ないという事になります。
 これは一般の人々ばかりではありませぬ。かなり進んだ頭を持った芸術家でも同様であります。芝居のお化粧なぞを見ましても鼻の動的表現の方は初めから問題にしないで、只鼻の恰好に現われる感じばかりを活《い》かすべく苦心されてあるように見えます。
 喜怒色に現わさずという事をすべての修養の根本、社交の第一義とまでに尊重して来た東洋の人々を相手とする芸術家の間に「鼻の動的表現」が問題とならぬのは、無理からぬと云えば云えぬ理由もあります。しかしこれと反対に表情を極度に誇張しようと努めている西洋の芸術家や婦人達の間にも「鼻の動的表現」、言葉を換えて云えば「鼻の表情」とでもいうべきものが独立して研究されたという事を未だ嘗《かつ》て一度も承わった事が無いのであります。
 活動やお芝居なぞを見ておりましても一層この感じを深く裏書きされるのであります。世界を挙げて人類は鼻の表現を一切打ち忘れて、鼻以外の表現法ばかりを研究しているものときめかかって差し支えないようであります。
 大袈裟なところでは眉が逆立ちをしたり、眼が宙釣りになったり、口が反《そ》りくり返ったりします。デリケートなところでは唇がふるえたり、眼尻に漣《さざなみ》が流れたり、眉がそっと近寄ったりします。その他頬がふくれたり、顳※[#「需+頁」、第3水準1−94−6]《こめかみ》がビクビクしたり、歯がガッシガッシしたりする。しまいには赤い舌までが飛び出して、上唇や下唇をなめずりまわし、又はペロリと長く垂れ下ったりします。
 その上に足の踏み方、手の動かし方、肩のゆすぶり方、腰のひねり方、又はお尻の振り方なぞいう、顔面表現の動的背景ともいうべき大道具までが参加して、縦横無尽千変万化、殆ど無限ともいうべき各種の表現を行って着々と成果を挙げているのであります。
 然るにその中央のお眼通り正座に控えた鼻ばかりはいつも無でいるようであります。只のっそりぼんやりとかしこまったり、胡坐《こざ》をかいたり、寝ころんだりしております。精々奮発したところで暑い時に汗をかいたり、寒い時に赤くなったりする位の静的表現しか出来ない。たまに動的表現が出来たかと思うと、それは美味《おい》しいにおいを嗅ぎ付けてヒコ付いたのであったなぞいう次第であります。どちらにしても恐ろしく低級な、殆ど無いと云ってもいい位な表現力しか持たぬものとして、人類の大部分に諦められているようであります。
 その中《うち》でもこの鼻の表現力に対する女性たちの諦め方は、特にお気の毒とも何とも申し上げようが無い位であります。
 容色の美醜は特に鼻の静的表現、即ち鼻の恰好に依って大変な違いが出来て来ますので、鼻に動的の表現が無い限りどうにも誤魔化しようが無いのであります。然るに天はなかなかこの鼻を思う通りの美的条件に合わせて生み付けてくれませぬので、たった鼻一つで売れ口の遅れるような実例が方々に出来て来るのであります。このような女性は毎日鏡を見るたんびに、遺伝という学問を編み出した学者を呪ったり、自分の鼻に似た恰好の鼻を持っている肉親の方を怨んだりしておられます。又は白粉《おしろい》の濃淡や頬紅の掛け引きなんぞでせめて正面から見た感じなりと誤魔化そうと、明け暮れどれ位苦心惨憺しておられるか知れませぬ。
 隆鼻術は、こんな方々のこんな心理状態が社会に鬱積して生み出した医道の副産物であります。もしこれが百発百中|※[#「米+參」、第3水準1−89−88]粉《しんこ》細工のように人間の鼻を改造し得る迄に発達致しましたならば、それこそ副産物どころでない、仁術中の仁術と推賞しても差し支えないであろうと考えられます。

     動的表現能力
       ――鼻の動的表現(一)

 これを要するに、眼や口と同様に数限りない表現が鼻にも存在するということを、確信を以て断言し得る人はあまりあるまいと考えられます。
 しかし又それと同時に、鼻というものは絶対に動的表現の能力を持たぬものと断定し得る人もあまり沢山はありますまい。つまるところ、あると云えばあるような、無いと思えばないような位のところが最も常識的な考え方であろうと思われます。
 ところでそれはそれでいいとして、もしこの鼻の動的表現、即ち「鼻の表情」と名付けられるものが実際に於て絶対に無いものとしたらどんな事になるでしょうか。
 怒《いか》った鼻を持った人はどんなに柔和な表情をして見せても、鼻だけはいつも顔の真中でこれを裏切って「怪《け》しからん奴だ」という感じを相手に与えるもの……又貧相な鼻の人は如何に脂切った景気のいい人相をしていても内実はいつもピイピイ風車と他人に見られるものと思い諦めている人がもしあったとしたら、その鼻は如何に呪わしいものでありましょうか。
 これに反して鼻の表情なるものがもし存在するとなりましたならば、そんな人にとっては実に天来の福音として歓迎されるに違いありません。
 同時に女神像のような恰好の好《い》い鼻やエジプト犬のようなとおった鼻すじを持っていて、自分の鼻はいつも大得意で鏡を覗いている時の通りの感じを他人にも与えているものと信じていた人々にとっては、この「鼻の表現」の存在は実に青天の霹靂《へきれき》とも言うべき不安と脅威とを齎《もたら》すものでなければなりませぬ。
 鼻にも表情がある。
 美しい鼻でも心掛けようでは醜く見える。見っともない恰好の鼻でも了簡《りょうけん》一つでは美しい感じを他人に与える。うっかり出来ないと思われるに違いありませぬ。
 さらに一歩を進めて、この鼻なるものは断じてそんな表現界の死物ではない。又は中風病みか鉛毒に罹《かか》った役者位にしか顔の舞台面の表現に役に立たぬものではない。他の眼や口なぞいう動的役者以上に多くの表現をそれ等以上に深刻に表現するものである。顔面表現の大立物である。
 しかも顔面表現のみならず、その人の全身の表現と深厚なる関係を持っているものである。もしこの鼻の表現と鼻以外のすべての表情とが一致しない時は、その人の表現は全然失敗となる。その人の表情は尽《ことごと》くその純な美しさを失って決して相手に徹底せぬ。
 もし又この鼻の表現を自由に支配して他の各部の表現と一致共鳴させる事が出来たならば、二重、三重、否、数重の意味を同時に表現することが出来る。芸術的の表現の場合なぞは殊《こと》にそうで、この技術を体得した人は千古の名優と称して差し支えない。又この事実を認めぬ時は如何に表情が巧みであっても後代に感銘を残す程の役者には絶対になり得ないものである事がわかったら、どんな事になるでしょうか。
 更に更に一歩を進めて、この鼻の表現を研究し練磨し修養をするということが人生終極の目的と一致するものである。大は歴史の推移転変から小は個人同士の離合集散まで、殆どこの「鼻の表現」に依って影響され支配されぬものは無いときまったら、そもそもどんな騒ぎが持上るでしょうか。
 鼻に表情があるということすら信じ得ない程に常識の勝《まさ》った人々には、とてもこんな事は信ぜられますまい。要するに一種の詭弁《きべん》か又は思い違いの深入りしたものに過ぎぬ。邪宗信者の感話位のねうちしか無い話である。現代の文明社会に生きて行く人々又は芸術家なぞが真剣に頭を突込むべき問題でない。肩の表現すら西洋人に及ばぬ日本人が「鼻の表現」なぞ云い出すのは、一種の負け惜しみか山っ子ではないか位にしか考えられぬであろうと考えられます。

     古人の研究
       ――鼻の動的表現(二)

 鼻の表現の存在、表現の方法、及びその価値に就いての研究応用、及びその影響は昔から鼻が閊《つか》える程存在している事は前に申述べた通りであります。
 その権威は厳として宇宙に磅※[#「石+薄」、第3水準1−89−18]《ほうはく》し、その光輝は燦《さん》として天地を照破し、その美徳は杳《よう》として万生を薫化しております。唯これ等の事実が
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