ませぬ。如何に相手に真剣の愛を注いでいる如く如何に巧《たくみ》に装っているにしても、同時に一方に一件の事を思い出さぬわけには行きませぬ。
 すべて知られてならぬ事は、知られてならぬ場合に限って特別にハッキリと心に浮かむものであります。長い事忘れていた借銭でも、貸した奴の顔を見ると忽ちに思い出すようなもので、まことに生憎千万なものであります。
 色事なぞは取りわけても左様《さよう》なので、隠そうと思えば思う程ハッキリと思い出します。
 真剣になろうとすればする程アデな調子になります。
 そこでそこいらが何となくクスグッタクなる、コソバユクなる。「ウフン」とか「エヘン」とか「オホン」とか「ウニャムニャ」とかいう誤魔化し気分、又はその当時のモテ加減なぞを思い出して浮《ふ》っかり出た「ニヤニヤ」とか「ウフウフ」とかいう気持ちが、鼻の表現の中《うち》を往来明滅するのを禁ずる事は出来ないのであります。
 このような場合には相手の婦人が鼻の研究者でない限り、又は余程の明眼達識の女性でない限り、もしくは特別の注意を男性の表現に払っていない限り気が付かないのが普通であります。しかしこれは有意識にそれと突き止め得ないだけで、無意識的には必ずこの男性の鼻の表現の裡面を往来する怪しい気分に感付いているものなのであります。女がゾッコン惚れ込んでいればいるだけ、この方面に対する神経は緊張しているものであります。

     偽表現の影響
       ――悪魔式鼻の表現(九)

 旦那様を信用し切っている奥様でもいつの間にか一件を感付いて御座るというのは、こんな消息があるからであります。
 男性が念には念を入れてその隠し事の気ぶりを晦《くら》まし、又は知恵の限りを絞ってその秘密の足跡を掻き消していればいるだけ、それだけその努力と苦心の痕は鼻の表現の底に暗い影となって残っているものであります。極めてヒステリックな婦人又は極めて順良な女性には又特にこのような点に敏感なのが多いようであります。
 このような女性は動《やや》もすると理屈なしの不意打ちに男性の言葉を「ウソ」だと否定し、男性が隠し切っている心理状態を思いも寄らぬ方面から抉《えぐ》り出して痛烈な攻撃を加えることがあります。又は眼の前ではさり気なく男の言葉にうなずいていても、いつかどこかで人知れず袖《そで》を噛みしめていることなぞがあります。
 二人切りになった時、妙にしおれた様子をしていて、
「どうしたのか」
 と尋ねても理由を云わない。あれかこれかと問い詰めた揚句ワッとばかりに泣き出すので、やっとわかるなぞいうのがあります。
 もっとヒステリーなのになると、夫の顔を見るたんびに何だか淋しくたよりなくなる。男の顔を見るのが物悲しく心苦しくなる。理屈も何も無いままにこの世が心細くわびしく思われて来て、
「あたしこの頃何だか変なの。あたし一人でいたくて仕様がないの。どうぞ構わないで頂戴」
 なぞ云いながら、自分でも何故そんな気もちになるのだかわからない。身に余る晴れやかな男の親切の裡《うち》に、たよりなさ、わびしさがますます深く感ぜられて来る。
「これがヒステリーというものでないかしら」
 なぞ考えているうちに、とうとう本物のヒステリーにかかってしまう。かかってから初めて潜在意識を意識して、
「あなたは妾を欺していらっしゃるでしょう」
 と正面から開き直り得るような事になるのであります。
 こんなのになると、いくら云いわけをしてもあやまっても頑として聴き入れないようであります。眼玉が灰落しのように凹《へこ》み、胸が洗濯板のようになって、怨み死にに死ぬまでもであります。
 鼻の表現の影響の深刻さ、ここに到って実に身の毛も竦立《よだ》つ位であります。
 一方にこうして女性に図星を指された場合、男性はその面目上|憤《おこ》るのが十中八、九のように見受けられます。ジロリと睨んだだけで相手を押え付けてしまう千両役者もありますが、大抵の場合それだけでは気が済みませぬ。
「そんな卑しい男と思うか」
 とか何とか眼も口も頬も額も、身体《からだ》中の表現をむずつかして自分の心底の公明正大を証明しようとします。その中には世間の習慣に楯つこうとする女性の生意気さに対する憤り、今までに与えた恩誼に対する相手の無自覚さに対する不満なぞいう良心の錯覚もまじっているのであります。その錯覚の勢いで相手を圧倒すると同時に、自分の正しからぬ鼻の表現を誤魔化そうと試みるのであります。
 しかし生憎《あいにく》にも鼻はいつもこの表現を裏切っているのであります。その暗い記憶に対する気の引け加減は、眼や口が怒りの表現で大車輪になってるさなかにも、鼻の表現にちゃんと居残っているのであります。

     馬鹿にされる
       ――悪魔式鼻の表現
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