現研究の面白味はここに到って益《ますます》高潮して来るのであります。
 最初から只今までズーッと述べて参りました鼻の表現の実例は、これを大別すると二通りになるのであります。
 前の方に述べました実例は、主として鼻の表現を支配し得ぬ人々で、これを支配するは愚なこと、そんな表現機関が自分の顔の真中に存在している事すら夢にも気付かずにいた人々がその大部分を占めているのであります。
 それからおしまいの方に悪魔式鼻の表現法として挙げましたのは、虚偽であれ何であれ、兎《と》にも角《かく》にも鼻の表現を支配し得る人々で、中には鼻の表現法を悉《ことごと》く飲み込んでいる人もあるそうであります。そんな人は先ず世間では珍らしい方でありましょう。
 ところでこの鼻の表現の支配し得る人々が何故に相手に深い感動を与え得るかと云うと、その眼や口や身ぶりの表現が鼻の表現と悉く一致しているからであります。だから本心からそう云っているように見える。思っているように察せられる。信ぜられる。
 だから相手も疑わない。共鳴する。本気になる。とどのつまりが真っ赤な偽ものを真実至誠の者と認めて、身命を惜しまず奉公するという順序になって来るのであります。
 個人もしくは民衆を徹底的に動かすものは真情の流露、至誠の発動であるという事は、今衆口の一致するところであります。而《しか》して真情の流露する時、至誠の発動するところ、必ずや全身のすべての表現の渾然たる一致を見なければならぬ筈であります。
 本当に喜んでいるものならば、その全身の表現はその上っ面の表現機関たる眼や口や身ぶりはもとより、鼻の表現までも一貫して徹底的に喜んでいる筈であります。
 衷心からそう信じているものならば、その鼻の表現は他の表現機関ともろともに徹頭徹尾確信の輝きに満ちていなければなりませぬ。
 こうしてその人のすべての表現が鼻のために少しも裏切られていない事が相手にわかった時に初めて、その人の表現が純一であると認められ得るのであります。その人の真剣味や至誠の力が相手を動かし得るものなのであります。
 すべての表現の渾然たる一致――それが相手たる個人及び民衆に及ぼす影響の偉大さ――この機微を盗んで或る程度まで成功しているものがかの名優、その他仮りに悪魔式鼻の表現家と名づけた人々であります。
 この中でも名優は商売でありますし、その表現は或る意味に於て実社会と直接交渉が無いのでありますから咎《とが》むべきではありませぬが、その他の人々は遺憾ながら知恵の果《くだもの》を盗み過ぎて食傷した猿と評する外ありませぬ。
 この種の人々はその最大限度に於て仮りの本心、仮りの性格に依ってその鼻の表現を支配し得るに止《とど》まるので、まだ本当に本心や性格を改め得るとは云えませぬ。況《いわ》んや持って生れた魂とか根性とかいうもの――ハイカラな言葉で云えば、大にしては国民性、小にしては個性と名づけられているもの――即ち鼻の表現のあらゆる変化の根柢を作っているそのものまでも転換し支配し得るわけではありませぬ。それ程|左様《さよう》に深刻偉大な鼻の表現の研究者とは云えないのであります。
 如何に徹底した悪魔式の鼻の表現であっても、無欲にして明鏡の如くに澄み切った心――悪魔以上に廓然《かくぜん》冷々たる態度を以てこれに対すれば、その底の底に悪魔らしい明智と胆力に対する確信の誇りが浮き上っているのがわけもなく見え透くのであります。さもなくとも普通人でも冷静な気持でこれに対するか、又は初めから呑んでかかるかすれば、大抵この種の鼻の表現使用者の腹の底――世間人間を馬鹿にし切っている気持ちがありありと見抜かれるのであります。況んや万に一つにも鼻の表現法の真髄に体達した人にこれ等の悪魔式鼻の表現が出会ったならば、すぐに根こそげ本性を見破られるでありましょう

     何となき疑い
       ――悪魔式鼻の表現(七)

 悪魔はあらゆる霊智の存在を無視し、世間人間を馬鹿にしております。その無視しているところにその本性を看破される原因が存在し、その馬鹿にしているところに馬鹿にされる原因が潜《ひそ》んでいるのであります。
 更にこれを名優の鼻の表現と比較すれば一目瞭然であります。名優の鼻の表現の根本基調を作《な》しているものはその芸術に対する熱誠只一つでありますが、悪魔の鼻の表現の基調をなしているものは、大胆さ、図々しさ、冷淡さ、狡猾さなぞで、決して澄み切った明るい表現とは見えないのであります。況《ま》してやその表現の根底が仮りの本心、仮りの性格であるに於てをやであります。
 鼻の表現はこれ等を飽く迄も如実に写し出します。それは如何に上等の硝子《ガラス》で張った鏡でも、横から見れば必ず硝子の厚みがわかると同時に濃淡二様の二重映像が見えるのと
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