よろしい。否、初めから恋をせぬ方がよろしい。生涯|互《たがい》に独身主義を守って只一時限りの……又は売り物買い物の低級な性愛や性欲で満足を買って行くがよろしい……と云いたくなりますが、これは机上の空論で実際はなかなかそうは行きませぬ。
 世間に習慣というものを生み出した人間が、その習慣の根本原理に対する無理解のある限り――社会というものを組織した人類が、その社会組織の原則に対する無自覚のある限り――又は異性同士が、「性欲」と「恋」と「愛」とに対して無区別、無分別である限り――さらに突込んで云えば、相手の本心の動き方や性格のかたまり方の美しさよりも、肉体や容貌や挙動なぞの美醜――さらに今一つ突込んで云えば、鼻の表現よりも、鼻以外の表現の方が愛の対象としての価値を定める条件としてより多く重んぜられている限り、男女関係の悲喜劇は永久に地球表面上から絶滅しないのであります。警察に出る捜索願いが絶えないわけであります。船板塀に見越しの松や、売れなくともよい小売店の影は決して世の中から消え失せない道理であります。下等のところでは肉の切り売りをする五燭光の影、上等なのでは良心の卸問屋に輝く百燭光の燦《きら》めきが夜の世間から退散しない筈であります。
 つまるところ遺憾ながら、問題は矢張り法律の必要な世界に逆戻りして来るので、結局原則は原則、実際は実際という事になります。親同志で勝手に取り決めた不見転式《みずてんしき》の許嫁《いいなずけ》が幸福やら、合わせ物、離れ物式が真理やら、今の世の中ではわからない事になって来ます。
 日本ではまだ戦国時代の婦人邪魔物的観念、封建時代の人間の消費経済や血統保存、又は家庭経済の成り立ちから来た道徳的習慣なぞが残っております。そのために婦人は多少に拘らず束縛されて、貞操を破り難い立場に置かれておりまして、その貞操に対する道徳的習慣は、殆どその良心の鋭敏さ――純潔無垢な恋の発露と一致せねばならぬ位に切り詰められております。道徳の方からは、「貞女両夫に見《まみ》えず」なぞと睨み付けられているし、習慣の方からは世間の口端《くちは》という奴が「女にあれがあってはねえ」と冷たい眼で見詰められております。女性の良心はこの点では、直《すぐ》に行き詰《づま》らせられるのであります。
 一面から見れば日本の文化程度は、形而上だけでも婦人の貞操に就いて進歩している、純愛の原則に合致し得る迄に突き詰《つめ》られ、理想化されていると云ってよろしいでしょう。
 これに対して男性の貞操はさほどに切り詰められておりませぬ。理想化されておりませぬ。道徳も習慣も男性の貞操に関しては、明瞭《はっきり》した定義を下しかねているようで、却《かえ》って「男の働きだから仕方がない」なぞと女性の方を押え付けるような傾向さえある位であります。そうして男性の貞操はいつ迄も非文化的、利己的、動物的であるままに放任されているかの観があります。従って男性は神聖なる恋、又は純粋なる愛を婦人と共に享楽する機会を永遠に奪われているかのように見えます。
 これに対して近頃「男子の貞操」が問題になりかけて来たのは、誠にさもあるべき事であります。太平楽の並べ合いをする「男女同権」の意味からでなく、家庭和楽のすすめ合いをする「男女同義務」の上から見て――鼻の表現研究の行き方である恋愛至上主義、即ち文化生活向上の意味から見て、取り敢ず大白《たいはく》を挙げて慶賀すべき現象と考えられるのであります。
 ところが男性の貞操に対する道徳観念、又は性的欲求に対する習慣は、なかなかこれ位の威《おどかし》で改良されそうな気色はありませぬ。「男性の貞操に関する法律」が婦人議会で可決されて、婦人の司法官に依ってビシビシ執行されない限り、一般の男性は依然として旧来の道徳と習慣の中《うち》に活躍するものと考えるのが至当でありましょう。そんな法律を男性は一笑に付して、益《ますます》つけあがるでありましょう。自分の良心の許可まで受けている気になって――否、良心の批難の方が時代遅れの世間知らず位に考えて――甚だしきに到っては男性の愛と女性の愛とはその根本の要素に格段の相違があるものなぞと悟りを開いて、盛んに性欲の漏電や性愛の混線をやるに決っております。
 さながらに漬物の味見でもするように、異性の性愛の芽立ちから薹《とう》立ち迄、又は生《なま》なれから本《ほん》なれへと漁《あさ》り歩きます。デカダンの非道《ひど》いのになると、腐りのまわった捨てものが一番いいなぞと云い出す位で、どこ迄行っても男性の良心は行き詰まりませぬ。真の愛を味覚する機会を見出だしませぬ。
 こうして男性なるものは、その愛の第一義を二方面にも三方面にも、或《あるい》は二重にも三重にも使いわけて当り前だという顔をしております。そうしなけれ
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