ら云っても、世間はだんだん実質本位になって来ます。お世辞でも中味のある方がいい。礼式でも無駄なのは廃してしまえというので、精神上物質上充実されたものでなければ人が相手にしなくなるのは当り前であります。
これが次第に拡充されて来ると、当世流行の人類愛迄漕ぎつけます。赤の他人にでも奉仕する。知らぬ人間でも尊敬をする。何人《なんびと》も欺し得ず、何ものも傷付け得ぬところまで行き付くのであります。つまり現在の人間がやっているおべっかやお追従《ついしょう》は、人間が動物から進化して純愛の一大団結たるべき下稽古――霊的文化の世界を組織すべき手習いをやっているものと見るが至当でありましょう。
鼻の表現研究の主目標は、ここにあるのであります。
この光明に達し得る最上の近道が、鼻の表現の研究に外ならないのであります。
「イヤアどうも。一度是非お伺いしなければならぬとはいつも考えながら、ついどうも」
という鼻の表現の内容が如何に充実していないものであるかという事は、本人自身もよくわかっている筈であります。
「アラチョイト。旦那にはどこかでお眼にかかったようだわ。妾《わたし》こんや嬉しいわ」
という鼻の表現が如何に三十円に値せぬかは、通人ならぬ御客様でも一眼でおわかりの事と存じます。
「お蔭様で助かります」
という仏面《ほとけづら》と、
「抵当が欲しけりゃ持って行け」
という閻魔面《えんまづら》とのどちらにも、横着を極めた鼻の表現が共通して存在している事は誰しも認め得るところでありましょう。
鼻の表現はこうして常にその誠意の有無を裏書して、相手の警戒心を挑発します。「嘘から出たまこと」でも「真事《まこと》から出たウソ」でもそのままソックリ写し出して、鼻の表現の邪道の研究範囲を狭くして行きます。三千年前から聖人が心配していた世道人心が、今日迄も案外|廃《すた》れ切らないのは、偏《ひとえ》にこの鼻の表現の御蔭ではありますまいかと考えられる位であります。
親の罪を引き受けて「私が致しました」というしおらしい孝子の鼻の表現と、自分の罪を他人になすり付けて「一向に存じませぬ」と白《しら》を切る悪党の済まし切った鼻の表現は、どうしても違わなければなりませぬ。同時にあらゆる証拠が揃っていながら「冤罪《むじつ》だな」と名奉行が心付き、又はなんの証拠もなくて反証ばかりあがっていながらテッ
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