愛の原則に合致し得る迄に突き詰《つめ》られ、理想化されていると云ってよろしいでしょう。
 これに対して男性の貞操はさほどに切り詰められておりませぬ。理想化されておりませぬ。道徳も習慣も男性の貞操に関しては、明瞭《はっきり》した定義を下しかねているようで、却《かえ》って「男の働きだから仕方がない」なぞと女性の方を押え付けるような傾向さえある位であります。そうして男性の貞操はいつ迄も非文化的、利己的、動物的であるままに放任されているかの観があります。従って男性は神聖なる恋、又は純粋なる愛を婦人と共に享楽する機会を永遠に奪われているかのように見えます。
 これに対して近頃「男子の貞操」が問題になりかけて来たのは、誠にさもあるべき事であります。太平楽の並べ合いをする「男女同権」の意味からでなく、家庭和楽のすすめ合いをする「男女同義務」の上から見て――鼻の表現研究の行き方である恋愛至上主義、即ち文化生活向上の意味から見て、取り敢ず大白《たいはく》を挙げて慶賀すべき現象と考えられるのであります。
 ところが男性の貞操に対する道徳観念、又は性的欲求に対する習慣は、なかなかこれ位の威《おどかし》で改良されそうな気色はありませぬ。「男性の貞操に関する法律」が婦人議会で可決されて、婦人の司法官に依ってビシビシ執行されない限り、一般の男性は依然として旧来の道徳と習慣の中《うち》に活躍するものと考えるのが至当でありましょう。そんな法律を男性は一笑に付して、益《ますます》つけあがるでありましょう。自分の良心の許可まで受けている気になって――否、良心の批難の方が時代遅れの世間知らず位に考えて――甚だしきに到っては男性の愛と女性の愛とはその根本の要素に格段の相違があるものなぞと悟りを開いて、盛んに性欲の漏電や性愛の混線をやるに決っております。
 さながらに漬物の味見でもするように、異性の性愛の芽立ちから薹《とう》立ち迄、又は生《なま》なれから本《ほん》なれへと漁《あさ》り歩きます。デカダンの非道《ひど》いのになると、腐りのまわった捨てものが一番いいなぞと云い出す位で、どこ迄行っても男性の良心は行き詰まりませぬ。真の愛を味覚する機会を見出だしませぬ。
 こうして男性なるものは、その愛の第一義を二方面にも三方面にも、或《あるい》は二重にも三重にも使いわけて当り前だという顔をしております。そうしなけれ
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