かし又一方から考えてみると、その時は、その面会謝絶すらも無用と思わるる絶望状態で、何を申上げてもお耳に入る筈はない。御臨終の妨げになる心配はないと考えたから、折角《せっかく》の御希望をお止めするのは却《かえ》って心ない業ではあるまいかと気が付いて……それならば折角のお話ですから私が立会いの上でお尋ね下さい……と御返辞した。
 二人の老人は非常に喜ばれた。即刻、私と同伴して、程近い中庄《なかしょう》の老先生の枕頭に来られて、出来るだけ大きな声で、私にはチンプンカンプンわからない謡曲の秘伝らしい事を繰返し繰返し質問されたが、私の推察通り意識不明の御容態の事とて、老先生が御返事をなさる筈がない。短い息の下にスヤスヤと眠って居られるばかりである。
 二人の老人は暗然として顔を見合わせた。仕方なしに今度は御臨終に近い老先生の枕元で本を開いて、二人の御老人が同吟に謡い出した。
 それが何の曲であったか、もとより私の記憶に残っていよう筈もないが、たしか開かれた一枚の真中あたりまで謡って来られたと思ううちに老先生の呼吸が少し静かになって来た。そうして間もなく私が執っていた触れるか触れないか程度の脈搏が
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