であったろう。
もとより生一本の能楽気質の翁が、こうした能静氏の風格を稟《う》け継いだ事は云う迄もない。
翁は九州に帰って後、そうした惨澹たる世相の中に毅然として能楽の研鑽と子弟の薫育を廃しなかった。野中到氏(翁の愛娘千代子さんの夫君で、後に富士山頂に測候所を建て有名になった人)と、翁の縁家荒巻家からの扶助によって衣食していたとはいえ全く米塩をかえりみず。謝礼の多寡《たか》を問わず献身的に斯道の宣揚のために精進した。
七八つの子供から六十歳以上の老人に到るまで苟《いやしく》も翁の門を潜るものは一日も休む事なく心血を傾けて指導した。その教授法の厳格にして周到な事、格を守って寸毫も忽《ゆるがせ》にしなかった事、今思っても襟を正さざるを得ないものがある。(後出逸話参照)
さもしい話ではあるが、そうした熱心な教育を受けた弟子が、謝礼として翁に捧ぐるものは盆と節季に砂糖一斤、干鰒《ほしふく》一把程度の品物であったが、それでも翁は一々額に高く押戴いて、「はああ……これはこれは……御念の入りまして……」
と眼をしばたたきつつ頭を下げたものであった。無慾篤実の人でなければ出来る事でない。
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