ていたかを容易に首肯されるであろう。その当時の能楽は全く長押《なげし》の槍《やり》、長刀《なぎなた》以上に無用化してしまって、誰一人として顧みる者がなかったと云っても決して誇張ではないであろう。
事実、維新直後から能楽各流の家元は衰微の極に達し、こんなものは将来廃絶されるにきまっているというので、古物商は一寸四方何両という装束を焼いて灰にして、その灰の中から水銀法によって金分を採る。能面は刀の鍔《つば》と一緒に捨値で西洋人に買われて、西洋の応接室の壁の装飾に塗込まれるという言語道断さで、能楽はこの時に一度滅亡したと云っても過言でなかった。
能評家の第一人者坂元雪鳥氏の記録するところを見ても思い半《なかば》に過ぐるものがある。
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専門の技芸の外には、世間に役立つ程の学才智能があるのではなし、銭勘定さえ知らない程に世事に疎《うと》かった能役者は幕府の禄こそ多くなかったが、諸大名からの夥しい扶持を得て前記の如き贅沢な安逸に耽っているのであるから、すべての禄に離れて、自活を余儀なくされた能役者の困惑は言語に絶するものであった。中には蓄財のあった家もあるが、静にそれを
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