のつつしまやかな形容に過ぎなかったらしく察しられる。
その能静氏の根岸の寓居は現在もソックリそのままの姿で石川子爵が住んで居られる。まことに堂々たる構えであるが、しかもこの明治二年前後は、能楽師が極度の窮迫に沈淪していた時代であった。現家元六平太氏が家元として引継がれた品物は僅かに張扇《はりおうぎ》一対というのが事実であったから、能静氏も表面は立派な邸宅に住みながら、内実は余程微禄した佗しい生活に陥って居られたものであろう。
そうして、他の能楽師のように別の商売に転向する芸もなく、権門に媚びる才もなく、売れない能楽を守って空しく月日を送って居られたものであろう。
「到って静かで、師を訪うて来る人もない」
という只圓翁の簡素な手記の中には、その時に翁の胸を打った或るものが籠められていたことがわかる。歌道を嗜《たしな》み礼儀に篤《あつ》い翁が、一切をつくした名文ではなかったろうかと思われる。
こうした純芸術家肌の能静氏の処へ今を時めく宰相公のお納戸組馬廻りの格式を持った翁が恭《うやうや》しく訪問した情景は正に劇的……小説的なものであったろう。能静氏の喜び、翁の感激は、どんなであったろうか。
能静氏の芸風は、極めてガッチリした、不器用な、そうして大きな感じのするものであったという。現家元六平太氏が常に先代先代といって例に引くのはこの人の事である。
翁は非番の日には必ず能静氏を訪うて稽古を受けた。遠からず滅亡の運命に瀕しつつある能楽喜多流の命脈を僅かに残る一人の老師から受け継ぐべく精進した。
又藩公へお客様の時には、翁は囃子、仕舞、一調《いっちょう》等を毎々つとめた。他家へお供して勤めた事もあったが、同時に師匠の能静師の事が藩公へ聞こえたのであろう。師匠と共に藩公の御前へ召出されて共々に勤めた事が度々であった。
翁が能静氏から「道成寺」「卒都婆《そとば》小町」を相伝したのはこの時であった。それから後、翁の出精《しゅっせい》がよかったのであろうか。それとも能静氏が、自分の死期の近い事を予覚したものであろうか。最も重き習物「望月」「石橋《しゃっきょう》」までも相伝したのであったが、ここに困った事が一つ出来た。
これ程に師匠から見込まれて、大層な奥儀まで譲られたのに対しては、弟子として相当の謝礼をしなければならないものである。勿論能静氏は、そんなつもりで教えたの
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