「ウン……間違えたと云やあ思い出すが、吾輩に一つ面目《めんもく》ない話があるんだ。あんまり面目ないから今まで誰にも話さずにいたんだが……ホラ……吾輩と君とで慶北丸の横ッ腹《ぱら》を修繕してしまうと、君は直ぐに綱にブラ下ってデッキに引返したろう。吾輩は沖の水舟を拾うべく、抜手を切って泳ぎ出した……あの時の話なんだ。実際、この五十余年間にあの時ぐらい、ミジメな心理状態に陥った事はなかったよ」
「……ヘエ。溺れかかったんですか」
「……馬鹿な……溺れかかった位なら、まだ立派な話だがね……」
「……ヘエッ。どうしたんですか……」
「……その小舟に泳ぎ付く途中で、何だか判然《わか》らないものが水の中から、イキナリ吾輩の左足にカジリ付いたんだ。ピリピリと痛いくらいにね」
「……ヘエ。何ですかそれは……」
「何だかサッパリわからなかったが、ちょうどアノ辺に鱶《ふか》の寄る時候だったからね。ここへ来たら大変だぞ……と泳ぎながら考えている矢先だったもんだから仰天したよ。咄嗟《とっさ》の間にソレだと思って狼狽したらしい。ガブリと潮水を呑まされながら、死に物狂いに蹴放《けはな》して、無我夢中で舟に這い上ると、ヤット落付いてホッとしたもんだが……」
「……結局……何でしたか……それあ……」
「……ウン。それから釜山の事務所に帰って、銭湯《せんとう》に飛込むと、何か知らピリピリと足に泌《し》みるようだから、おかしいなと思い思い、上框《あがりかまち》の燈火《あかり》の下に来てよく見ると……どうだ。その左の足首の処に女の髪が二三本、喰い込むようにシッカリと巻き付いて、シクリシクリと痛んでいるじゃないか……しかも、そいつを抓《つま》み取ろうとしても、肉に喰い込んでいてナカナカ取れない。……吾輩、思わずゾッとして胸がドキンドキンとしたもんだよ。多分、水面下でお陀仏《だぶつ》になりかけていた芸者の髪の毛だったろうと思うんだが、今思い出しても妙な気持になる。……女という奴は元来、吾輩の苦手なんだがね。ハハハハ……」
 といったような懐旧談で、頻《しき》りに悽愴《すご》がってシンミリしている鼻の先へ、庭先の月見草の中から、白い朝鮮服を着て、長い煙管《きせる》を持った奴がノッソリと現われて来たもんだ。
 三人はその時にハッとさせられたようだった。しかし、そのうちに長い煙管が眼に付くと、
 ……ナアンダ朝鮮《ヨボ》公か……コンナ処まで浮かれて来るなんて呑気な奴も在るもんだ。アッチへ行け。|何も無い《オブソ》|何も無い《オブソ》。
 というので手を振って見せたが動かない。そのうちに気が付いて見るとそれが擬《まが》いもない友太郎だったのにはギョッとさせられたよ。噂をすれば影どころじゃない。テッキリ幽霊……と思ったらしい。三人が三人とも坐り直したもんだ。
 ……ハハハ……ナアニ。聞いて見たら不思議でも何でもないんだ。
 何よりも先に××沖で例の一件を遣付《やっつ》けた時の話だが……慶北丸に引かれた小船で、沖へ揺られて行く途中で早くも親父《おやじ》の顔を見て取った友太郎がハッとしたものだそうだ。そこでもしやと思って親父の図星《ずぼし》を刺してみると果して「その通りだ。モウ勘弁ならん」と冷笑している。……これはいけない。こうなったら取返しの附かない親父だと思うには思ったが、何ぼ何でも吾輩の一身が案じられたもんだから一生懸命に親父の無鉄砲を諫《いさ》めにかかったが……モウ駄目だった。
「……ナアニ。心配するな。轟先生の泳ぎは神伝流の免許取りだから一所《いっしょ》に沈む気遣いはない。アトで拾い上げて大急ぎで釜山に帰るんだ。そのうちに先生を説伏《ときふ》せて組合の巡邏船、鶏林丸に食糧と油を積んで、その夜《よ》の中《うち》にズラカッてしまう。真直《まっすぐ》に露領沿海州へ抜けて俺の知っている海岸で冬籠りの準備をする。春になったら砂金|採《と》りだ。誰も寄り付けない絶壁の滝壺の中に一パイ溜まっているのを、お前と二人で見た事が在るだろう。……あすこへ行くんだ……あの瀑布《たき》の上の方を爆薬《ドン》でブチ壊して閉塞《ふさ》いでしまえばモウこっちのもんだ。儲かるぜそれあ……轟先生は元来、正直過ぎるからイカン。役人の居る処はドウセイ性に合わん事を御存じないんだ。あんな人を一生貧乏さしといては相済まん。……朝鮮はモウ嫌じゃ嫌じゃ。西比利亜《シベリア》が取れたら沿海州へ行くと口癖に云うて御座ったから、コレ位、宜《え》え機会《おり》はない。モウ西比利亜には日本軍がワンワン這入っとるから喜んで御座るにきまっとる……それでも嫌なら今の中《うち》に貴様もデッキに上っとれ。……俺が一人で遣っ付けてくれる。轟先生の演説ぐらいで正気附く野郎等じゃない……」
 という見幕だったのでトテも歯の立てようがなかった。しか
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