し蘭法|附木《つけぎ》の火、四方に並べし胡麻《ごま》燈油の切子硝子《きりこ》燈籠《とうろ》に入れば、天井四壁一面に架け列《つら》ねしギヤマン鏡に、何千、何百となく映りはえて、二十余畳にも及ぶべき室内、さながらに白昼の如く、緞子《どんす》の長椅子、鳥毛《とりげ》の寝台、絹紗の帳《とばり》、眼を驚かすばかりなり。又青貝の戸棚に並びたるは珍駄婁《ちんだる》の媚酒、羅王中《ロワンチユン》の紅艶酒。蘇古珍《スコチン》の阿羅岐《アラキ》焼酎。ギヤマン作りの香煙具。銀ビイドロの水瓶。水晶の杯なぞ王侯の品も及ばじな。前の和尚の盗み蓄《たくは》めにやあるらむ。金銀小判大判。新鋳の南鐐銀のたぐひ花模様絨氈の床上に散乱して、さながらに牛馬の余瀝《よれき》の如し。
そが中に突立ちたる奈美女は七宝の大香炉に白檀の一塊を投じ、香雲|縷々《るゝ》として立迷ふ中より吾をかへりみて、かや/\と笑ひつゝ、此の部屋の楽しみ、わかり給ひしかと云ふ。
流石《さすが》のわれ言句も出でず。総身に冷汗する事、鏡に包まれし蟇《がま》の如く、心動顛し膝頭、打ちわなゝきて立つ事能はず。ともかくも一度、方丈に帰らむとのみ云ひ張りて、逃ぐるが如くマリア像の下より這ひ出でしこそ笑止なりしか。
されどもわれ、つひに此の外道《げだう》の惑ひを免るゝ能はず。此の寺に踏み止まりて奈美女と共に昼夜をわかたず、冬あたゝかく夏涼しき土窖《つちぐら》の中に、地獄天堂を超えたる不可思議の月日を送り行くに怪しむ可し、一年《ひととせ》の月日もめぐらさぬうちに、何時《いつ》となく気力衰へ来る心地しつ。万豪和尚より習ひ覚えしといふ奈美女の優れたる竹抱、牛血、大蒜《にんにく》、人参、獣肝、茯苓草《ぶくりやうさう》のたぐひを浴びるが如く用ふれども遂に及ばず。果ては奈美女の美しく化粧せる朝夕のうしろ姿を見る事、虎狼よりも恐ろしく思はるゝやうになり来りぬ。
こゝに不思議なるは、彼《か》の寺男の馬十なり。
彼《か》の男、毎日|未《ひつじ》の刻より申《さる》の刻に到る間の日盛りは香煙を吸ふと称して何処へか姿を消しつ。そのほかは常に未明より起き出で、田畠を作り、風呂を湧かし、炊爨《すいさん》の事を欠かさず。雨降れば五六里の山道を伝ひて博多に出で、世上の風評を聞き整へ、種々《くさ/″\》の買物のほかに奈美女の好む甘き菓子、珍らしき干物《ひもの》、又は何処《いづこ》より手に入れ来るやらむ和蘭《オランダ》の古酒なんどを汗みづくとなりて背負ひ帰るなんど、その忠実々々《まめ/\》しさ。身体の究竟《くつきやう》さ。まことに奈美女の為ならば生命《いのち》も棄て兼ねまじき気色なり。
さはさりながら奇怪千万にも馬十は、われを主人とは思ひ居らざるにやあらんずらん。わが云ひ付けし事は中々に承《う》け引かず。わが折入つて頼み入る事も、平然と冷笑《あざわら》ふのみにして、捗々《はか/″\》しき返答すら得せず。奈美女の言葉添なければ動かむともせざる態《さま》なり。われ其の都度に怒気、心頭に発し、討ち捨て呉れむと戒刀《かいたう》を引寄せし事も度々なりしが、さるにても彼を失ひし後の山寺の不自由さを思ひめぐらして辛くも思ひ止まる事なりけり。
然るに此の山寺に来てやゝ一年目の今年の三月に入り、わが気力の著じるく衰へ来りしより以来《このかた》、彼の馬十の顔を見る毎に、怪しく疑ひ深き瞋恚《しんに》の心、しきりに燃え立ちさかりて今は斯様《かう》よと片膝立つる事|屡々《しば/\》なり。後は何ともならばなれ。わが気力の衰へたるは、此《この》程、久しく人を斬らざる故にやあらんずらん。さらば此《この》男の血を見たらむには、わが気力も昔に帰りてむかなぞ、日毎に思ひめぐらし行くうちに此の三月の中半《なかば》の或る日の事なりき。
頬冠りしたる彼《か》の馬十、鍬を荷《かつ》ぎてわが居る方丈の背面《うしろ》に来り、彼《か》の梅の古木の根方を丸く輪形に耕して、豆のやうなる種子を蒔き居り。その上より下肥《しもごえ》を撒きかけて土を覆ひまはるに、その臭き事限りなく、その仕事の手間取る事、何時《いつ》果つべしとも思はれず。
われ思はず方丈の窓を引き開きて言葉鋭く、何事をするぞと問ひ詰《なじ》りしに、馬十かたの如く振り返り、愚かしき眼付にてわれを見つめつゝ、もや/\と嘲《あざ》み笑ふのみ。頓《とみ》には応《いら》へもせず。やがて不興気なる面《おも》もちにて黄色なる歯を剥き出し、低き鼻尻に皺を刻みつ。這《こ》は和蘭陀《オランダ》伝来のくれなゐ[#「くれなゐ」に傍点]の花の種子を蒔くなり。此等《これら》の秘蔵の種子《たね》にして奈美殿の此上《こよ》なく好み給ふ花なり。此《この》村の名主の家のほか他所《よそ》には絶えて在る事無し。此処《こゝ》に蒔き置けば、夏の西日を覆ひ、庭の風情
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