方に暮れ居たりしが、やがて嫁女奈美殿の前に両手を支《つか》へつ。此の粗忽はわが不念《ぶねん》より起りし事なり。平に許させ給ふべしと、詫言するとひとしく立上り、奥の間にて喜びの酒酌み交し居りし仲人、藤倉大和殿夫婦を右、左に斬り倒ふし、うろたへ給ふ両親をかへりみて、われ乱心したりとばし思召《おぼしめ》されなよ。今一人斬るべき者の候間、そを見てわが心を知らせ給へ。孝不孝はかへりみる処に非ず。虚偽は男子の禁物なり。鬼三郎の一念、今こそ思ひ知り給へやと云ひ棄てゝ走り出で、奈美殿の両親の家を訪《おとな》ひ、驚きて迎へに出で来る継母御を玄関先に引捕へて動かせず。静かに鬼三郎の云ふ事を聞き給へ、義理の娘が憎《に》くさの余り、生家方《さとかた》の威光を借りて、かゝる縁談を作り上げ、吾を辱かしめ給ひしに相違あるまじ。その御自慢のお家柄、藤倉殿御夫婦は唯今討果したるばかりなり。性根を据ゑて返答し給へ。如何に/\と問ひ詰むるに、黙然として答無し。すなはち一刀の下に首を打落して玄関に上り、物蔭にて打|戦《をのゝ》き給ふ奈美殿の父御を探し出し、やよ。岳父御《しうとご》よ。よく聞き給へ。此度の事は泰平の御代に武道を忘れ、縁辺の手柄を頼《たより》に出世を望み給ひし御身の柔弱より出でし事ぞかし。今夜斬りし三人の顔触れを見給はゞ奈美殿の清浄潔白は証明《あかし》立つ可し。安心して引取り給へ。われは生涯、女を絶ち、おとなしき娘御の孝心に酬いまゐらすべし。さらば/\と云ひ棄てゝ其の家を出で、夜もすがら佐賀路に入り、やがて追ひ縋り来りし数多の捕手《とりて》を前後左右に切払ひつゝ山中に逃れ入り、百姓の家に押入りて物を乞ひ、押借り強盗なんどしつゝ早くも長崎の町に入りぬ。
長崎は異人群集の地、商売繁昌の港なり。わが如き者は日本に在りては国の災ひ也。異国に渡りて碧眼奴《あをめだま》どもを切り従へむこそ相応《ふさは》しけれと思ひ定めつ。渡船の便宜《よすが》もがなと心掛け歩《あ》りくうち、路用とても無き身のいつしか窮迫の身となりぬ。詮方《せんかた》無さに町道場に押入りて他流試合を挑み、又は支那人の家に押入りて賭場荒しなぞするうちに、やがて春となりし或る日の午の刻下りのこと諏訪山下、坂道の途中にて一人の瘠せ枯れたる唐人の若者に出会ひしに、しきりに叩頭して近付き来る。何事やらむと立佇《たちと》まれば慌しく四隣《あたり》を見まはし、鮮やかなる和語に声を秘《ひそ》めつゝ、御頼み申上げ度き一儀あり。枉《ま》げて吾が寝泊りする処まで御足労賜はりてむやと、ひたすらに三拝九拝する様なり。すなはち心得たる体にて彼《か》の唐人に誘はれ行くに、港の入口、山腹の中途に聳え立つ南蛮寺の墓地に近く、薬草の花畑を繞《めぐ》らしたる一軒の番小舎あり。その中に山の如く積み上げたる藁の束を押し分けて、いと狭き落し戸より、真暗き石段を降り行けば、やがて美くしく造り飾りたる窖《あなぐら》に出でぬ。得も云はれず芳ばしき煙、夢の如く棚引き籠もれり。
其処までわれを誘ひ入れし若き唐人は、やがて吾を長崎随一の漢薬商、黄駝となん呼べる唐人に引合はせぬ。
其の黄駝といへる唐人、同じく三拝九拝して、われに頼み入る処を聞けば別儀に非ず。六神丸の秘方たる人胆《ひとぎも》の採取なり。男女二十歳以上三十歳までの生胆金二枚也。二十歳以下十五歳まで金三枚也。十五歳より七歳まで五枚也。七歳以下金十枚といふ話也。
黄駝は肥大、福相の唐人。恭しくわれに銀器の香煙を勧むるに、弁舌滑らかにして甘脂の如し。此の六神の秘方は江戸の公方、京都の禁裡の千金の御命を救ひ参らせむ為に、年々|相調《あひとゝの》へて献上仕るもの。虫螻《むしけら》と等しき下賤の者の生命《いのち》を以て、高貴の御命を延ばし参ゐらせむ事、決して不忠の道に非ず。貴殿の御武勇を以て此事を行ひ賜はらば一代の御栄燿《ごええう》、正に思ひのまゝなるべしと、言葉をつくして説き勧むるに、われ、香煙の芳香《にほひ》にや酔ひたりけむ。一議に及ばず承引《うけひ》きつ。其夜は其の花畑の下なる怪しき土室《あなぐら》にて雲烟、恍惚の境に遊び、天女の如き唐美人の妖術に夢の如く身を委せつ。
眼ざめ来れば、身は南蛮寺下の花畑の中に在り。茫々|乎《こ》として万事、皆夢の如し。わが曾て岳父御《しうとご》に誓ひし一生|不犯《ふぼん》の男の貞操は、かくして、あとかたも無く破れ了んぬ。
われ此時、あまりの浅ましさに心|挫《くじ》け、武士の身に生れながら、生胆《いきぎも》取りの営業《なりはひ》を請合ひし吾が身の今更におぞましく、情なく、長崎といふ町の恐ろしさをつく/″\と思ひ知りければ、今は片時も躊躇《ためら》ふ心地せず。そのまゝ南蛮寺を後にして、諏訪神社の石の鳥居にも背《そがひ》を向け、足に任せて早岐の方を志す。山々の段
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