持ちで謡う時は、その通りの気持が、前の模倣的な節扱いよりも遥かに自由自在に、且つ切実に、深刻にあらわれる。すなわち声の定型の妙味は、舞の定型の妙味と少しも違わない。
不自然、不調和、不合理の美
以上は能の舞、謡、囃子に定型的な……無意味なものが何故に多いか。それが何故模倣、写実の千差万別的な表現よりも変化が多いか。直説法式に深刻な舞台効果をあらわすか。演者と観者の主観を一如の美しさに結び付けるかという理由の一端を、辛《かろ》うじて説明したものである。
しかし、能の各種の表現には、以上の如き説明も及ばない全然無意味、不合理、もしくは不調和と見えるものが決して些《すくな》くない。
何等の感激もないところに足拍子を踏む。美しい風景をあらわす場合に、観客に背中を向けて歩くという最も舞台効果の弱い表現をする。最も感激の深かるべきところを、一直線に通過する。そうかと思うと、格別大した意味のないところで技巧を凝らすなぞいう例がザラに在る。能楽が無意味の固まりのように思えるのは無理もない。
ところがよくよく味わってみると、その無意味な変化は、全体の気分の上から出て来たものであったり、又は不合理、不調和に見えたものは、表現の裏の無表現でもって全体の緊張味を裏書きしたものであったりする事が折りに触れて理解されて来る。そうしてその無意味、もしくは不調和な表現ほど能らしい、高潮した表現に見えて来るので、能はここまで洗練されたものかと、屡々《しばしば》歎息させられる。
欧米の近代芸術は単純、無意味、不調和、もしくは突飛な線や、面や、色彩を使って、人力で表現し得べからざるものを表現すべく試みているようであるが、そのような表現法も能は到る処に試みているので、寧ろ能楽の最も得意とするところである。
とはいえ、斯様《かよう》にして洗練されて来た、舞、謡、囃子が、どんな風に集まり合って能を組み立てているか……という具体的の説明は依然として絶対に出来ないと思う。日本に生れて日本の詩歌伝説に共鳴し、日本語の光りと陰影に慣れ親しみ、八拍子の序破急に対する感覚を遺伝し、舞のリズムと打音楽の調和を喜び得る純日本人ですら、能を見物して唯よかったとか、悪かったとか云うだけで、何故という質問に答え得ない位だから――。
能のわかるアタマは特殊のアタマとさえ考えられている位だから……。
けれども、そもそも「舞」とか「謡」とか「囃子」とかいうものの本来の使命はどこに在るか……その本来の使命が「能」ではどんな風に果されつつあるか……という事に就いて、私一個人の無鉄砲な意見を述べる事は出来ようと思う。そうして、その意見を首肯……もしくは反対される人々が、各自の意見によりて能を考察されたならば、或は能をドン底から理解される事になりはしまいかと思う。私が説明し得ないところを氷解されはしまいかと思う。
これは私が好んでする奇矯《ききょう》な論法ではない。
「能」は如何なる方向からでも玩味、批判され得る一個の人格だから……。
「能」はアトムから人間にまで進化して来て、更に又もとのアトムにまで洗練、純化されつつある綜合芸術だから……。
定型の根本義
舞い、謡い、囃《はや》すという事は人間最高の仕事である。
人間文化が次第に向上して、一切の言葉が純化されて詩歌となって問答される。これに共鳴した人々が楽器で囃す。同時に人間の一切の起居動作が洗練されて舞となって舞うようになったならば、それは人類文化の最高のあらわれでなければならぬ。日本、支那、印度《インド》、西洋の各国に於ても、或る文化種族がその栄華を極めた時、即ちその文化的能力を極度に発揮した時、日常事にふれて詩歌を以て相語り、舞を以て仕事を行った時代があったそうである。
又、かような事も考えられる。
主観的に云えば蝶は蜜を求めて飛びまわっているのであろうが、人間の眼に映ずる蝶の生活は、春のひねもすを舞い明かし舞い暮しているとも考えられる。すくなくとも蝶が蜜を求めて飛びまわる姿は、その美しい翅《はね》と、変化に富んだ飛び方の曲節によって、春の風物気分とシックリ調和しているので「蝶は無意識に舞っている」と云えるであろう。
その蝶の舞を今一層深く観察してみる。
蝶のあの美しい姿は開闢《かいびゃく》以来、あらゆる進化の道程を経て、あの姿にまで洗練されて来たものである。同様にその飛びまわりつつ描く直線曲線が、全然無意味なままに相似ていて、バッタの一足飛びや、トンボの飛行機式なんぞとは比べものにならない程、美的なリズムに満ち満ちているところを見ると、蝶には他の翅虫たちよりも遥かに勝れた美意識があるように見える。そうしてその美意識によって春の野の花に調和し、春の日の麗《うら》らかさを高潮さすべく、最もふさわしい舞い姿にまで、代を重ねて洗練されて来たのが、あの蝶の舞い型であると考えられる。
鳥の歌も同様である。
ある種類の鳥の唄う諧調は、全然無意味のまま、相似通っていて、春の日の麗らかさに調和し、駘蕩《たいとう》の気分を高潮さすべく、最もふさわしい諧調にまで、元始以来洗練され、遺伝されて来ている諧調の定型であるかのように思われる。
そうしてその蝶の舞いぶり、鳥の唄いぶりが、人間のそれと比べて甚しく無意味であるだけそれだけ、春の日の心と調和し、且つその心を高潮させて行くものである事は皆人の直感するところであろう。
人間の世界は有意味の世界である。大自然の無意味に対して、人間はする事なす事有意味でなければ承知しない。芸術でも、宗教でも、道徳でも、スポーツでも、遊戯でも、戦争でも、犯罪でも何でも……。
能はこの有意味ずくめの世界から人間を誘い出して、無意味の舞と、謡と、囃子との世界の陶酔へ導くべく一切が出来上っている。そうしてその一曲の中でも一番無意味な笛の舞というものが、いつも最高の意味を持つ事になっている。勿論多少は、劇的の場面を最高としてあるものもあるが、大部分は笛の舞を中心としている。
その曲の最もありふれた形式の一つを挙ぐれば、先ず日常生活に原因する悲劇的場面から初まって、その悲劇の主人公が次第に狂的、超人的な心理状態に入る。同時にその言、意味のある普通の文句から、次第に無意味な詩歌的気分と音調とを帯びて来る。その気分を数名の合唱隊が受けて謡う。それに連れて主人公が舞い出す。
かようにして舞台面の気持はやがて散文も詩も通り越し、劇も身ぶりも、当て振りも、情緒や風趣をあらわす舞も、グングンと超越して、全然無意味な、気分も情緒も何もない、ただ、能としての最高潮の美をあらわす笛の舞に入る。その時に謡が美しく行き詰まりつつ消えて行く。
この笛の舞は、よほど能の好きな人でもわからない退屈なものと見倣されている。それほど高い芸術価値を持っているものである。
すなわち能は、まず現実世界の人間に、分り易い簡単な劇を選み出して見せる。そうして観衆の頭を引き付けておいて、その中から気分と意味とを取り交ぜた舞踊を抽出して見せる。それから最後に、無意味な、無気分な、只美しい、品のいい、音と形ばかりの、笛の舞の世界をあらわして最高の芸術愛好者を酔わせて了《しま》うのである。
この笛の舞が最高潮に達して終りかける時、舞手は、笛の舞を舞い出した時の気分と照応した謡を謡い出す。そのうちに笛が止んで囃子の段落が来る。そのあとから謡手が謡い出して、劇でいう切りの気分に入り、調子よく舞い謡いつつ最高潮に達して終る。
以上は能の作曲の一つの定型と云っていいであろう。
底本:「夢野久作全集11」ちくま文庫、筑摩書房
1992(平成4)年12月3日第1刷発行
入力:柴田卓治
校正:小林 徹
2002年12月22日作成
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