えられている能を保存して、発展向上させるためには、色々の無理や矛盾が出来て来るのは止むを得ない。能楽家はこうした無理や矛盾と、寝ても醒めても闘わねばならぬ。わけても新興の流儀に属する人々は特にそうである。
前記の諸収入を基礎とした、芸術家、興行家、兼政治家式の家元中心制度が生まれるのは誠に是非もない事である。
各流の家元の中には、芸が下手なばかりでなく、品性や品行の点にも大きな欠陥を持った人も随分あった。随って前記の諸収入が「流儀のため」という目的以外の、家元の私的生活に濫費された例は珍しくないようである。しかしそれでも極端でない限り、家元として保護され、尊敬されて来た例が、やはり珍らしくない。この事実は吾国民の芸術愛好慾が、如何に底強いかを裏書しているとも考えられる。
又一面から見て、能楽は絵や彫刻なぞと違って、後に残らない。何月何日に何流の何某が舞った何々の曲は、それを見た人の印象に残り、話に伝わるのみである。今にトーキーか何かで伝わるようになるかも知れぬが……。だから、その流儀の勢力拡張のためばかりでなく、その流儀の保存のために、家元の世襲制度が必要となって来る。
家元の世襲制度
家元の世襲制度には実子後継と養子後継と二種類ある。実子後継の方は、どうにも工合がわるいらしい。どんな名人でも実子が自分の天分を受け継いでいるとは限らない。受け継いでいるように見えても実は単に、見慣れ聞き慣れ、見よう見真似に過ぎなかったりする。本当に受け継いでいるにしても、親の贔屓《ひいき》目という本能が邪魔をして徹底した教育鍛練が行われ難い。又、子は子で、親の威光や、お譲りの名前や技巧に依頼する心が無意識に働らくので、修業に弛《ゆる》みが出来るらしい。吾が子を思い切り仮借せずに鍛い上げた例話が芸界の美談として残っているが、その間にも親子の情愛が動くのは止むを得ない。純一な芸道教育にまで徹底し得なかった消息がたやすくうかがわれる。
これに反して養子制度の方は工合よく行くもののようである。ここに一人の名人があって、能楽はかくあるべきものと信じて苦心研鑽をして来た結果、前途に疑いもない大光明を認め、遂に一流の開祖となって旧来の各流と相対峙し、弟子を養い、流風を宣揚するとする。同時にその人は当時第一流の芸術家や名僧智識達にも容易に理解されない程の深遠な芸術の哲理を体得しているので、どうかしてこれを後世に伝えたいと思うが、これを理解するものが一人も無いとする。
普通の芸術だと、こうした玄妙を後世に伝えるのは不可能である。殊に色にも音にも残らないものならば、結局一人一代限りとなるべき筈であるが、能楽に限ってはこれを後世に伝える事が必ずしも不可能でない。
その方法が家元の養子制度である。
能は前にも述べたように、代々の名人上手によって洗練に洗練を重ねられて来た型(舞、謡、囃子等の全部を含む)に自己を当てはめて、更にソレを洗練に洗練した型を残す……という方法で、代を重ねて向上して来たもので、能とは要するに、人間の表現慾の極致、芸術的良心の精髄を、色にも型にも残らぬ型というものによって伝えて行くものである。だから、その型を理解し得ないものは、その型は舞えない事になっており、その一節、その一クサリと全曲との関係を味い得ないものには、その曲は謡えず囃《はや》せない事になっている(最も厳正な意味から云って)。
たとえば邯鄲《かんたん》という曲に於て、主演者の盧生という人物が、能を終って引っこみがけに、自分の持っていた団扇《うちわ》を、舞台に置き忘れたまま幕に入る型がある(通常は持って引っ込む)。これは昔或る名人が、本当に人生を達観した盧生の気持ちになっていたために、本当に置き忘れて引っ込んだので、今以て、いい型として残っているが、サテ誰もこの型を再びやる者が居ない。何となれば、忘れようとして忘れたのは本当に忘れたのではない。真実の型とは云えないから誰一人として演るものが居ない。或はこの型が残ったために、後世に於ても永久にこの型をやる者が無くなるかも知れぬ。
能の型は、それ程に神聖なもので、その境地に本当に這入った者でなければ、その型の精神はわからない。その演者の個性がそこまで洗練され、その人間の芸術的良心が、そこまで高潮されなければ、絶対に体得出来ないのが能の型であるという事が断言出来る。この意味から、或る一流の家元となった名人は、色々な深刻な、高潮した型を残して、後世に伝えようとする。しかし生やさしい者には伝えられない。
こうなると吾児《わがこ》の幸福なぞは問題でない。吾児以外の誰でもいい。若い、頭のある、見込みのある者を自身に教育して、その人間の「能」を自分の程度にまで向上させて、自分の型を理解させるよりほかに方法がなくなる。そこで、一所懸命になって、そんな人間を探し出して、自分の流派の後継者として、精彩を尽して薫育をする。
その教育方法は、随分、思い切って手酷いもので、時と場合によってはその養子の生命をさえかえりみない。これに堪え得ないような芸術的向上心の薄いものは、将来の流儀の精神と、物質的繁栄の根元たるべき家元の地位を預けるに足らぬ者と考えられているようである。
尤《もっと》もかような厳しい教育は、凡《すべ》ての芸術教育に在り勝ちの傾向で、能楽に限った事ではないようであるが、しかし、能楽者の子弟の教育は特に斯様に厳格でなければならぬ大きな理由がある。
前にも述べた通り、「能楽」という芸術は、新作物を受け付けぬどころでなく、逆に旧作のものの中でも芸術価値の薄いものは、容赦なく自然消滅をさせつつ発達向上して行く芸術である。だから現在選み残されている二百番足らずの曲目のドレ一つとして古名人の心血を絞っていないものはない。その一節、一手、一句切りと雖《いえど》も、実に古人の生涯を賭した百繰千練の賜でないものはないのである。能の隅々までも行き渡っている、云い知れぬ「アリガタサ」や「ヨサ」はかくして生み出され、伝えられたものに外ならないのである。
後に生れた者は素人も玄人も共に、そんな古人の苦心をソックリそのまま無代価で頂戴している。その「ヨサ」や「アリガタサ」を学ぶだけの苦労で、これを楽しみ、これによって衣食する事が出来るのである。よしや古人の苦心なぞ理解し得ずとも、習った通りに演じておりさえすれば、トニモカクニモおまんま[#「おまんま」に傍点]が喰って行けるのである。
こうした「芸の祖先」の恩を知らない玄人は能を知らない者である。能楽師たる資格のない者である。素人と玄人との本当の区別はこの心がけの在る無しによって決定する。
新作物を出すなぞいう者は、やはり能の使命を理解し得ない芸術界の浅薄児、狂躁輩である。流石《さすが》に玄人にこのような企てをする人が居ないのはさもあるべき事である。
しかし玄人でも、こうして生まれた能のヨサ、有り難さが解かっていながらに、一と通り芸が出来るようになると、自分独りで豪《えら》くなったように思って、恣《ほしいまま》に羽根を伸したり、新手を編み出したりする者があれば、それは能楽界の外道である。能の堕落の誘因にこそなれ、能楽向上の足しにはならない。
能を今日に伝えた先祖代々の苦心を察して、その恩を忘れない能楽師ならば、その芸は如何に下手でも、必ず能としての本当の品位を保っているものである。現代に於て名ある達者上手でも、この心掛けのない人の芸は、表面如何に立派でも、その奥に能楽独得の芸的高貴さが光らない。
「心を空しくして恩を感じ、身を励ます」という事は人間最高の心掛けである。この心を片時も忘るる時は、その片時から芸が堕落しはじめる。
能はかくして人間最高の心がけを要求する芸術である……その心掛けのみを唯一の中心生命として今日に伝わり、生きて輝やき、時代に超然として、時代芸術のトップを切って行きつつある。だから少し油断をすると直ぐに堕落し易い。況《いわ》んや今日のように能楽師が各自にめいめいの芸を売って生活しなければならなくなれば尚更である。祖先が折角向上させた能を堕落させて大衆に媚びつつ生活して行くのを当然の権利と心得、結局能楽を自滅させるに到るであろう事は明白である。
能楽師の芸術教育が特に厳格でなければならぬ理由は最早説明を要しないであろう。
能楽師はこの意味でその子弟を鍛えねばならぬ。その型の仕込みの一つ一つに諸先輩の苦労を思い知らせねばならぬ。自分の相伝された時の艱難《かんなん》を覚らせねばならぬ。「先祖代々の形容に絶した苦心の集積を譲り受けて衣食するのだぞ。そのおかげで他人の師となって、尊敬を受けて行く事が出来るのだぞ。この恩のわからない奴は能のわからない奴だぞ」……という心をどこまでもタタキ込んで行かねばならぬ。
これが能楽師たる者の最高の職分である。
これが能の生命の根源である。
ところが能をやる者は人間である。人間である以上、めいめい自分の頭の程度に能を解釈して勝手に羽根を伸ばしたい。一番イヤな恩なぞは感じたくない……というのが人情である。そうして識らず識らずの間に自分の芸を堕落させて大衆に迎合して行く。能楽界の外道となって行くのが多い勝ちである。
これを喰い止めて行く最後の責任者は家元である。家元が祖先の恩を忘れたならば、その流儀の能は遠からず、あらゆる意味に於て滅亡して行く。否。その忘れた瞬間から滅亡し初める。
家元は、そんな事を考え得ない内弟子、囃方、狂言師、素人弟子の中心に立って、敢然としてこの精神を支持し宣揚して行かねばならぬ。
そうしてこの精神と、芸との両方を兼ね備え得る見込のある子供を養い取って、自分の後を継がせねばならぬ。
これが家元の職分の初め終りである。
能楽に家元制度が厳存している理由はここに在る。
養子の勉強
その家元の養子は初めは家元の厳しい教育によって一通りの事を習いおぼえる。
ところが、その養子が家元の見込通りに相当の天分を持った児であるとすれば、必然的に旧来の型なるものに疑問を起して、自分の個性もしくは哲学から出直して、研究のやり直しをはじめる。そうして人間最高の表現が能である。能の最高の表現が自流の家元、すなわち養父の型であるという事を徹底的に理解するまで研究する。
その養子の若い、元気な表現慾は、この間に、ありとあらゆる芸術的向上の過程を経る。たとえば象徴、写実、又は印象派、未来派、感覚派なぞいう、あらゆる芸術表現の行き方を、それと名は知らないままに色々と試みては行き詰まり、行き詰まっては又新しく試みる。他流のやり方を採り入れたり、打ち毀《こわ》したりして悶え、迷妄し、鍛練する。その苦しみが如何に悽愴たるものがあるかは門外漢の想像し得るところでない。
こうして苦しむ間が大抵、十五六歳から二十四五歳ぐらい迄の間ではないかと思われる。無論能の研究は一代がかりどころではない。今日の能と雖《いえど》も、まだ甚しい未成品に相違ないので、行き止まりは絶対にないのであるが、ここに云うのは天才児が能―芸術、人生―霊というものに根本的に疑いをいだき、結局、本当に能の精神を理解して、自己の本来の面目にドカンとブツカリ得る時期を云うので、しかも、それは一般の少年少女が「世界苦」を懐《いだ》いて憂悶、焦慮する時期と一致している筈と思われるから、斯《か》く推定するのである。
いずれにしてもその第二代の養子はかくして、第一代の家元がタッタ一人で相手なしに研究し向上して来た境域にまで、比較的若いうちに達する事が出来る。それは勿論その養父たる家元の鞭撻《べんたつ》指導の御蔭に相違ないのであるが、その時には、前に述べた芸の恩というものが、自分の嘗《な》めた苦心によってその養子の骨の髄にまで徹していると同時に、その養子は相伝された型を、養父家元の真似でなく、全然自分の本来の面目として表現し得る迄になっているので、その間にすこしの模倣も迷信もない。そうして更にその以上に自己の表現を洗練しよう……即ち自流の能楽の境
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