能を今日に伝えた先祖代々の苦心を察して、その恩を忘れない能楽師ならば、その芸は如何に下手でも、必ず能としての本当の品位を保っているものである。現代に於て名ある達者上手でも、この心掛けのない人の芸は、表面如何に立派でも、その奥に能楽独得の芸的高貴さが光らない。
「心を空しくして恩を感じ、身を励ます」という事は人間最高の心掛けである。この心を片時も忘るる時は、その片時から芸が堕落しはじめる。
 能はかくして人間最高の心がけを要求する芸術である……その心掛けのみを唯一の中心生命として今日に伝わり、生きて輝やき、時代に超然として、時代芸術のトップを切って行きつつある。だから少し油断をすると直ぐに堕落し易い。況《いわ》んや今日のように能楽師が各自にめいめいの芸を売って生活しなければならなくなれば尚更である。祖先が折角向上させた能を堕落させて大衆に媚びつつ生活して行くのを当然の権利と心得、結局能楽を自滅させるに到るであろう事は明白である。
 能楽師の芸術教育が特に厳格でなければならぬ理由は最早説明を要しないであろう。
 能楽師はこの意味でその子弟を鍛えねばならぬ。その型の仕込みの一つ一つに諸先輩の苦労を思い知らせねばならぬ。自分の相伝された時の艱難《かんなん》を覚らせねばならぬ。「先祖代々の形容に絶した苦心の集積を譲り受けて衣食するのだぞ。そのおかげで他人の師となって、尊敬を受けて行く事が出来るのだぞ。この恩のわからない奴は能のわからない奴だぞ」……という心をどこまでもタタキ込んで行かねばならぬ。
 これが能楽師たる者の最高の職分である。
 これが能の生命の根源である。
 ところが能をやる者は人間である。人間である以上、めいめい自分の頭の程度に能を解釈して勝手に羽根を伸ばしたい。一番イヤな恩なぞは感じたくない……というのが人情である。そうして識らず識らずの間に自分の芸を堕落させて大衆に迎合して行く。能楽界の外道となって行くのが多い勝ちである。
 これを喰い止めて行く最後の責任者は家元である。家元が祖先の恩を忘れたならば、その流儀の能は遠からず、あらゆる意味に於て滅亡して行く。否。その忘れた瞬間から滅亡し初める。
 家元は、そんな事を考え得ない内弟子、囃方、狂言師、素人弟子の中心に立って、敢然としてこの精神を支持し宣揚して行かねばならぬ。
 そうしてこの精神と、芸との両方を兼ね備え得る見込のある子供を養い取って、自分の後を継がせねばならぬ。
 これが家元の職分の初め終りである。
 能楽に家元制度が厳存している理由はここに在る。

     養子の勉強

 その家元の養子は初めは家元の厳しい教育によって一通りの事を習いおぼえる。
 ところが、その養子が家元の見込通りに相当の天分を持った児であるとすれば、必然的に旧来の型なるものに疑問を起して、自分の個性もしくは哲学から出直して、研究のやり直しをはじめる。そうして人間最高の表現が能である。能の最高の表現が自流の家元、すなわち養父の型であるという事を徹底的に理解するまで研究する。
 その養子の若い、元気な表現慾は、この間に、ありとあらゆる芸術的向上の過程を経る。たとえば象徴、写実、又は印象派、未来派、感覚派なぞいう、あらゆる芸術表現の行き方を、それと名は知らないままに色々と試みては行き詰まり、行き詰まっては又新しく試みる。他流のやり方を採り入れたり、打ち毀《こわ》したりして悶え、迷妄し、鍛練する。その苦しみが如何に悽愴たるものがあるかは門外漢の想像し得るところでない。
 こうして苦しむ間が大抵、十五六歳から二十四五歳ぐらい迄の間ではないかと思われる。無論能の研究は一代がかりどころではない。今日の能と雖《いえど》も、まだ甚しい未成品に相違ないので、行き止まりは絶対にないのであるが、ここに云うのは天才児が能―芸術、人生―霊というものに根本的に疑いをいだき、結局、本当に能の精神を理解して、自己の本来の面目にドカンとブツカリ得る時期を云うので、しかも、それは一般の少年少女が「世界苦」を懐《いだ》いて憂悶、焦慮する時期と一致している筈と思われるから、斯《か》く推定するのである。
 いずれにしてもその第二代の養子はかくして、第一代の家元がタッタ一人で相手なしに研究し向上して来た境域にまで、比較的若いうちに達する事が出来る。それは勿論その養父たる家元の鞭撻《べんたつ》指導の御蔭に相違ないのであるが、その時には、前に述べた芸の恩というものが、自分の嘗《な》めた苦心によってその養子の骨の髄にまで徹していると同時に、その養子は相伝された型を、養父家元の真似でなく、全然自分の本来の面目として表現し得る迄になっているので、その間にすこしの模倣も迷信もない。そうして更にその以上に自己の表現を洗練しよう……即ち自流の能楽の境
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