ず……と……。

     曲の進化

 最初に能の曲目が千番か二千番存在していたとすると、能役者の表現慾は、その中でもいいものを今一度|演《や》って見たいと要求する。一方に観客の観賞慾も亦同様に、あれを今一度見たいと願う。双方|相俟《あいま》って、ここに真剣な芸術の研成機運が生まれる。即ち玄人《くろうと》と素人、芸術と批評、実際と理想……と、そうした裏と表の両面から篩《ふるい》にかけて選み出されたものはキット内容の充実した……舞台表現として成功した曲にきまっている。
 そこでこれを幾度も幾度も繰返し繰返し演出してみると、まだ足りない処や余計な処があるのが発見される。全体から見てはいいけれども焦点がハッキリしない……重点の置き処がズレている。……出来過ぎた処がある……ダレた処がある……ああでもない、こうでもいけない……と演出される度毎《たびごと》に洗練され、煎じ詰められて来る。
 こうして洗練されて来るうちに、洗練し甲斐のない事が判明して来た曲目は一つ一つに棄てられて行く。すなわちどこか喰い足りないために見物が見たがらないし、役者の方も張り合いがないというわけで、次第に演ずる度合いが些《すくな》くなって行く。それでも暫くは保存されているが、遂には廃せられてしまう。
 これに反して、いいものはわるいものよりもはるかに度数をかけて洗練される結果、いよいよ立派なものになって行く。後世の人々の血も涙も無い観賞眼、又は演者の芸術的良心によって益々芸術的に光ったものとなされて行く。……全体の調和と変化が極く必要な部分だけ残されて、曲の緊張味とか、余裕とかいうものが、あくまでも適当に按配され、シックリさせられて行く。その装束の極めて小さな部分、舞の一手、謡の一句一節、鼓の手の一粒に到るまでも、古名人が代を重ねて洗練して来た芸術的良心の純真純美さが籠《こ》もって来る。
 かくして能の表現は次第次第に写実を脱却して象徴? へ……俗受けを棄てて純真へ……華麗から率直へ……客観から主観へ……最高の芸術的良心の表現へ……透徹した生命の躍動へと進化して行く。画で云えば、未来派、構成派、感覚派、印象派なぞいう式の表現のなやみは夙《とっ》くの昔に通過してしまった。狩野派、土佐派、何々流式の線や色の主張も、飄逸《ひょういつ》も、洒脱《しゃだつ》も、雄渾も、枯淡も棄て、唯一気に生命本源へ突貫して行く芸術になってしまった。そうした遺跡が現在の能の中に重なり合い、閃めき合いつつ残っている。真剣な玄人は知、不知の中にそうした進化の跡を辿り味わいつつ自分の芸を向上させつつある。一心に能を渇仰《かつごう》し、欣求《ごんぐ》しつつある。……技巧から魂へ……魂から霊へ……霊から一如へ……。
 だから目下の能は、芝居なぞに比較すると、その表現が遥かに単純率直である。元始のままの処が残っている。元始の状態へ逆戻りしつつある処さえあるらしい。しかしその表現の内容、陰影、余韻などいう芸術的の要素は新作新作と大衆に迎合して行く他の芸術と比較されぬくらい深く、鋭く、貴く、美しく純化され、一如化されて来ている。
 一方にその舞、謡、囃子は、手法が簡単であるために、あまり天分のない素人にまでも習われ易くなっている。そうしてこれを習ってみると、初め異様に、不可解に感ぜられていた舞の手、謡の節、囃子の一クサリの中から、理屈なしに或る気持ちのいい芸術的の感銘を受けられる。そこに含まれている古人の芸術的良心……すなわちそんな単純さにまで洗練された人間性の純真純美さが天分に応じ、練習に応じて、次第次第に深く感得されるようになっている。すなわち能は非常に高踏的な芸術であると同時に、一方から見ると、極端に大衆的になっている。貴族的であると同時に平民的であり得るところまで、単純素朴化され、純真純美化されている。
 この道理は小謡の一節、囃子の一クサリ、舞の一と手を習っても、直に不言不語の裡にうなずかれる。昨日《きのう》の喰わず嫌いが、きょうは能狂になるくらい端的である。
 尚、能の進化は家元制度を参考すると一層よく解る。

     家元制度

 能は日本の封建時代から生れて来たものであるから、能を職分とする者が世襲制度を執《と》るのは自然の傾向かも知れぬ。しかし、能楽が家元制度の下に発達したに就いては別にモット深い、万止むを得ない理由がある。
 能楽の主演者の家元に五つの流派がある。金春、金剛、観世、宝生、喜多(発生の年代順)がそれである。
 金春の流風は古雅なプリミチブな技巧を多く含んだ流儀で、極く昔の能楽の姿や精神を見るにはこの流儀の演出を見るがいいようである。
 金剛流は金春を今些し世俗向きにしたようなもので、写実的要素やキワドイ変化の手法を多く取り入れられているようである。
 観世流は以上の如く
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