ように充血した。その眼は情熱に輝きみちみち、その唇は何とも形容の出来ない恨《うら》みに固く鎖《とざ》されて、その撫で上げた前髪の生《は》え際《ぎわ》には汗の玉が鈴生《すずな》りに並んで光っていた。彼女がこれ程に深刻な魅惑力を発揮し得ようとは今までに一度も想像し得なかった程で、私は思わず心の中《うち》で……妖女……妖女……浴室の中の妖女……と叫んだほどに、烈しい熱情と、めまぐるしい艶美さとをあらわしつつ私の眼の前に蔽《おお》いかかって来たのであった。しかしそうした彼女の驚異的な表情をなおも冷やかに、批評的な態度で見上げながら、足の先の処にゴボゴボと流れ込んで来る温泉の音を聞いていると、そのうちに彼女の唇が次第次第に弛《ゆる》みかけて、生え際の汗が一粒一粒に消え失せ初めた……と思うと、やがて剃刀《かみそり》のようにヒイヤリとした薄笑いが片頬に浮き上って来たのであった。
「あなたはエライ方ね……」
私は悠々と自分の足の爪先に視線を返しながら答えた。
「どうして……」
「あまり驚かないじゃないの」
「驚いたって仕様がないさ。そっちで勝手にする事だもの……」
「マア……口惜しいッ……」
と不意に金切声をあげた彼女は、血相をかえて掴みかかりそうになった。私はそれを避けようとしてドブリと湯の中へ落ち込んだが、その拍子に鼻の穴から湯が這入ったのを吐き出そうとして、烈しく噎《む》せびながら湯の中に突立った。肩から胸へかけて薄い寒さを感じつつ、濡れた髪毛《かみのけ》を撫で上げ撫で上げやっとの事で眼を見開いた。
見ると彼女は蛇紋石《じゃもんせき》の流し場に片手を支《つ》いたまま、横坐りをして、唇をシッカリと噛んでいた。エバを取り逃がした蛇のように鎌首を擡《もた》げて、血走った眼で私を睨み上げていたが、やがて、怨《うら》めしそうに切れ切れに云った。
「……あたしの気持ちはわかっている癖に……あなたがソンナ悪党ってことは……妾《あたし》……きょうが今日まで知らなかったわ……にくらしい……」
こう云いながら彼女は又も、その大きな眼をグルグルさして、二三度入口の方を振り返った……と思うと不意に、スックリと立ち上って、無手《むず》と私の両手を掴みながら、抱き寄せるようにして湯の中から引っぱり出した。石甃《いしだたみ》の上をダブダブと光り漂う湯の上に、膝を組み合わせる程近く引き寄せて、私の首に両の腕を絡ませると、興奮のために、ふるえる唇を、私の耳に近づけた。喘《あえ》ぐように囁やきはじめた。
「……あたしね……聞いてちょうだい……ずっと前、長崎で西洋人の小間使いになっているうちに、ソッと毒薬の小瓶を盗んでおいたのよ。……可愛らしい瀬戸物の真黒な小瓶よ。それはね……そのラマンさんという和蘭《オランダ》人のお医者の話によると、ジキタリスという草を、何とかいう六《むつ》ヶしい名前の石と一緒に煮詰めた昔から在る毒薬で、支那人が大切にする『鴆《ちん》の羽根』と『猫の頭』と『虎の肝臓《きも》』と『狼の涎《よだれ》』という四つの毒薬の中《うち》で『鴆の羽根』という白い粉と、おんなじものになっているんですってよ。……それをアブサントを台にして作ったコクテールの中に、竹の耳掻きで一パイか二ハイずつ混ぜて服《の》ませると、その人間は間もなく中毒にかかって、いくらでもいくらでも飲みたくなるんですって……アブサントのおかげで青臭いにおいがスッカリ消されている上に、どことなくホロ苦くてトテモ美味《おい》しいんですって……だけど一度に沢山飲ませると、すぐに眼や鼻から血を噴き出しながらブッたおれて、十分と経たないうちに死んで終《しま》うから駄目なんですってよ……そうして二日目か三日目越しに、竹の耳掻き一《ひ》と掬《すく》いずつ殖《ふ》やして行って、その毒が心臓にすっかり沁み込んだ時に……つまり耳掻きに十杯以上……グラムに直して云うと三分の一グラムぐらい飲んでも、何ともないようになった時分に、急にその薬を入れるのを止《よ》すと、四五日か一週間も経つうちにいつとも知れず、不意に、心臓痲痺とソックリの容態になって死んでしまうので、どんなにエライ博士が来て診察しても、わかりっこないんですってさあ…………ね………ステキでしょう……ね……わかって?……」
私は眼の前にモヤモヤと渦巻きのぼる温泉の白い湯気を見守りながら、夢を見るようないい気持ちになって、ウットリと彼女の囁やきに聞き惚《と》れていた。その湯気の中に入道雲みたように丸々と肥った叔父のまぼろしが、いくつもいくつも、あとからあとから浮き出しては消え、あらわれては隠れして行くのを見た。それを見守りながら私は、伊奈子の話が途切れてしまっても、暫くの間ムッツリと口を噤《つぐ》んでいたが、そのうちにフト気が付いて伊奈子を振りかえった。
「……
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