た。
 焼香の時に一番先に仏前に立った呉羽は、長い事手を合わせて、何か口の中でブツブツと祈りながら肩を震わして泣いていたが、その態度がアンマリ真剣だったので江馬|兄妹《きょうだい》は勿論、女中のおヨネまでも眼を潤ませていた。ところが故意か偶然かわからないけれども、そのおしまいがけになって呉羽の祈っている呟やき声に、何とも云えない気味の悪い底力が這入って来て、シンとした西洋|室《ま》の中にハッキリと沁《し》み透り初めたので皆真青になって顔を見合わせた。
「……何もかも……貴方も……わたくしも……二十年前から間違って来ておりました……わたくしは、それを自分の手で公表さして頂きとう御座います……正しい姿に改めさせて頂きとう御座います……すべての間違った恩も怨みも……一掃さして頂きとう御座います……どうぞ成仏なすって下さい……南無阿弥陀仏……」
 それから彼女は、まだ僧侶達が帰らない中《うち》に呼びつけのタキシーの高級車を呼んで、弦《つる》を離れた矢のように飛出て行った。一直線に帝国ホテルに乗付けて、東洋一の興行師と呼ばれているトキワ興行社長の段原《だんばら》万平氏に面会し、呉服橋劇場をタッタ五万円で来る九月十日限り売渡す約束をしてしまった。
 それから呉羽は又一直線に自宅に引返して桜間弁護士を自分の寝室に呼寄せ、留守の事や契約の事なぞを色々と細かに頼んで後《のち》、呉服橋劇場専属の俳優二十七名の中《うち》から選出《よりだ》した男女優僅に十余名を眼立たぬように変装させて、コッソリと上野駅を出発し、どこへか姿を消してしまったという事が、轟氏殺害犯人の逮捕に引続いて各新聞に報道され、満都の好奇心を聳動《しょうどう》した。しかし、それもホンノちょっとの間の事で、世間の人はいつの間にかそんな事を忘れるともなく忘れていた。
 とはいえ呉服橋劇場の探偵劇と異妖劇の味を心から愛好していた一部の尖端都会人は、事実、火の消えたような淋しさを感じていたらしい。折ふし場末の活動館にかかった面白くも何ともない独逸《ドイツ》の怪奇映画「笑う心臓」というのが連日、割れるような大入りを占めたのを見ても、そうした怪奇モノに飢えている都会人の心裡がアリアリと裏書きされていた。実際、敏感な文壇の人々や劇評家、芸術家の中《うち》には「呉服橋劇場を救え」とか「邪妖劇と都会人」とか「怪奇劇と女優」とかいったような「
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