のには飽き飽きしているのですからね。天命を知ったとでも云うのでしょうか。モット落付いた、人間らしいシンミリとした生活がしてみたくてたまらなくなっているのですからね」
「……………」
「但し……貴女が僕に新しい生命を与えて下さるとなれば問題は別ですがね」
呉羽は微《かす》かにうなずいた。ヒッソリと眼を閉じたまま……。
「……ね。おわかりでしょう。そうした僕の心持は……」
呉羽は一層ハッキリとうなずいた。
「ええ。わかり過ぎますわ」
「ね。ですから……ですから……僕と……」
笠支配人は青くなったり赤くなったりした。こうした場面によく現われる中年男の醜態[#底本では「醜体」と誤記]を見せまいとしてハラハラと手を揉んだり解いたりした。
「ええ。それは考えてみますわ。女優なんてものはタヨリない儚《はかな》い商売ですからね」
「エッ。それじゃ……承知して……下さる……」
「まッ……待って頂戴よ……そ……それには条件があるのです。妾も……ネンネエじゃありませんからね」
呉羽は今にも自分に飛びかかりそうな笠支配人を、片手を挙げて遮り止めた。笠支配人は誰も居ない部屋の中を見まわしながら不承不承に腰を落付けた。
「そ……その条件と仰言るのは……」
「こうよ。よく聞いて下さいね。いいこと……」
「ハイ。どんな難かしい条件でも……」
「そんなに難かしい条件じゃないのよ。ね。いいこと……たとい貴方《あなた》と妾《わたし》とが一所になったとしても、この劇場の人気が今までの通りじゃ仕様がないでしょ。ね。正直のところそうでしょ。轟家《うち》の財産だって、もうイクラも残ってやしないし……貴方も相当に貯め込んでいらっしゃるにしても遊びが烈しいからタカが知れてるわ」
笠支配人は忽ち真赤になった。モウモウと湯気を吹きそうな顔を平手でクルクルと撫で廻した。
「ヤッ。これあ……どうも……そこまで睨まれてちゃ……」
「ですからさあ……妾だって全くの世間知らずじゃないんですから、好き好んで泥濘《ぬかるみ》を撰《よ》って寝ころびたくはないでしょ。ね。ですから云うのよ。モウ少し待って頂戴って……」
「もう少し待ってどうなるのです」
「あのね。妾もね……この劇場《こや》にも、探偵劇《しばい》にも毛頭、未練なんかないんですけどね。折角、轟さんと一所に永年こうやって闘って来たんですから、せめての思い出に最後の一旗
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