するものだ。
「……昨夜《ゆんべ》、陸上《おか》で妙な話を聞いて来たんですがね。今度お雇いになったあの伊那《いな》一郎って小僧ですね。あの小僧は有名な難船小僧っていう曰《いわ》く附きの代物《しろもの》だって、皆《みんな》、云ってますぜ」
 俺はそう云いさしてチョックラ船長《おやじ》の顔色を窺《うかが》ってみたが、何の反応も無い。相も変らず茶色の謎語像《スフィンクス》みたいにプッスリしている。無愛相《ぶあいそう》の標本だ。
「あの小僧が乗組んだ船はキット沈むんだそうです。I《アイ》・INA《イナ》って聞くと毛唐《けとう》の高級船員なんか慄《ふる》え上るんだそうです。乗ったら最後どんな船でも沈めるってんでね。……だから今度はこのアラスカ丸が危《あぶね》えってんで、大変な評判ですがね。陸上《おか》の方では……」
 これだけ云っても船長の渋紙面は依然として渋紙面である。ネービー・カットの煙《けむ》をプウと吹いた切り、軍艦みたいな顎《あご》を固定してしまった。しかし黒い硝子球《ガラスだま》は依然として俺の眼と鼻の間をギョロリと凝視している。モット俺の話を聞きたがっているらしいんだ。
「あの小僧は小《ちっ》ちゃくて容姿《ようす》が美《い》いので毛唐の変態好色《すけべえ》連中が非常に好《す》くんだそうです。あの小僧も亦《また》、毛唐の高級《ハイクラス》に抱かれるとステキに金が儲《もう》かるんで、船にばっかり乗りたがるんだそうですが、不思議な事にあの小僧が乗った船で、沈まない船は一|艘《そう》も無いんだそうです。初めてあの小僧を欧州航路に雇傭《チャータ》した郵船のバイカル丸が、ジブラルタルで独逸《ハン》のU何号かに魚雷《ヤキイモ》を喰《く》わされた話は誰でも知っているでしょう。そん時に漂流端舟《ながれボート》に這《は》い上ってハンカチを振ったのが彼小僧《あいつ》のSOSの振出《ふりだ》しだそうですがね。……それから第二丹洋丸がスコタラ沖でエムデンにアッパーカットを喰わされた時も、あの小僧は丁度、新式救命機の着込み方のモデルにされていたところだったそうで、そのまんま飛込んで助かっちまったんだそうです。……まあ運の良《い》い奴といえばいえましょうが、彼小僧《あいつ》の運が良《い》いたんびに船全体の運命がメチャメチャになるんだから敵《かな》いません。……まだ他にも二三艘、大きな船《やつ》
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