……」
「Aと同じだね」
「ウン。Xは疑問の事、Yは枕草紙だのあんなものの事、Zは脅迫だの、誘拐だの、泥棒だの、いくらも意味があってわかりにくいんだっさ」
「みんな、君の英語の先生が教えたのかい」
「ウン――まだこんなのを二つも三つも重ねると、まだいろんな面白い事があるけれど、君達が不良になるといけないからって、そう云ってやがったぜ」
「馬鹿にしてらあ。じゃ、今度習ったらいいじゃないか」
「だけど、おれあ彼奴《あいつ》嫌いさ。好色漢《すけべえ》だってえから……」
「誰が?」
「兄貴がそう云ったよ。兄貴はもっと習ったかも知れないけど……君、これを写さないかい」
「ウン、帰ってから写そう、貸し給え」
 二人の少年は立ち上って、塵をハタキながら去った。
 記者はノートを伏せて、彼等が見えなくなるまで見送った。
 あの少年兄弟は教師に誘惑されているらしい――とその時思った――こんなつまらない事を教えてやると云って、生徒を誘惑する先生がよく居るからである。
 こう考えると、アルファベットの秘密も何だかつまらなくなって来た。探偵小説の重大発見か何かのように、あの生徒の話をノートに取ったのが、無暗に馬鹿馬鹿しくなって来た。
 それから四五日経った。

     Mの字の秘密

 記者がある老刑事さんを訪うて苦心談をきいていると、偶然こんな事を云い出した。
「この頃は学校生徒が無暗に鳥打帽を冠るので困るよ。変な事をやってる奴を押えても、出鱈目《でたらめ》の名前を云って困るんだ。和服ん時に名前が書いたるのは鳥打帽だが、大抵は英語の金文字一字ッキリだからしようがない。学校の名前だと吐かしア、それでもいいし、自分の名前だと云っても、そうかってなわけだからね。麦稈《ばっかん》帽や中折れだと、Wは大概早稲田だし、Kは慶応、Mは明治と学校の名前を使っているのが多い。鳥打帽でも昔のだとそうなんだが、この頃は全く出鱈目らしいね。その中《うち》でもMなんて字は、学校の名前だか自分の苗字だか見当が付かないね。医科大学がMだし、明治がそうだし、まだあるだろう。自分の名前にしても、松田だの、前田だの、村井だの、三井だの、何でもその場で云えるだろう。Rだの、Cってな、そんなわけに行かないからね。Mって字はだから便利な字さ」
「そんなら、Mの字をつけてる奴は大抵不良なんですね」
「アハハハハ。そんなわけじゃないがね。とにかく気をつけて見たまえ。Mの字を帽子につけてる奴が馬鹿に多いから。おれあ、どうも腑に落ちないと思っているんだがね……」
 記者はこの最後の言葉にあまり注意を払わなかった。只、Mの字がよく売れることだけは間違いないと思っただけであった。
 すると今度はその翌日の事……。

     英語の先生の話

 冷い雨の降る日――四谷から牛込へ帰る途中――飯田橋から新宿行の急行電車に乗り換えると――あの中学生――一週間余り前に、上野公園の杉の木蔭で、友達にアルファベットの秘密を教えた生徒が、偶然に記者の前に立っているのを発見した。
 記者はニコニコして問うて見た。
「どこまで帰るのですか、君は」
 彼はハニカミ笑いをしながら答えなかった。
「あなたの英語の先生は何といいますか」
 これは頗《すこぶ》るまずい問い方であったが、ついそんな調子になってしまった。彼は矢張り答えなかったが、その代り意外の処から返事が来た。
「私ですが、何か御用ですか」
 記者は驚いてふり返った。すぐうしろに一人の学校教師らしい四十恰好の人が立っている。あまり立派でない背広に中折れで、ゴムのコートを着て、ゴムの長靴を穿いている。背はあまり高くなく、強度の近眼鏡をかけた学者風の丸顔で、一見神経質の人らしく見える。好色漢《すけべえ》らしいところは微塵《みじん》もなく、却て記者を不良か何かと見たらしい顔付である。
 記者は面喰らいながら帽子を脱いだ。
「ハイ、実はここではお話も出来かねる事で……」
 と傍の少年をかえり見た。
 先生は何と思ったか、急に物柔かな態度になった。
「ア……そうですか。では恐れ入りますが、私の宅までお出《いで》願われますまいか」
「それは恐縮ですが……」
「イヤ、お構いさえなければ……むさくるしい処ですが」
 記者は風向きがあまり急に変ったので少々面喰らった。しかし兎《と》も角《かく》も、抜け弁天の付近にある先生の私宅まで、ザアザア降る中をお伴して行った。
 その私宅というのは或る富豪の長屋で、少年はその家の三番目の令息であった。兄と一緒に(この日は何故かその兄と一緒でなかった)神田辺の或る中学に通っているので、その中学英語の先生田宮(仮名)はその家庭教師として長屋に居るのであった。ところが兄弟とも成績と品行があまりよくないので困っているらしい事が、田宮夫人のオシャベリでわ
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