致しているから、聞いた通りここに書いておく。事実の有無は保証出来ない。只参考迄である。
その男は高い身分を持つ某家の令息で、好男子で、ピストルを撃つ手腕に独特のものがあった。
彼は十代から家を出て、乾児《こぶん》を連れて東京市中のカフェーを押しまわった。彼の前でちょっと生意気な素振りをする者があると、彼はいつも相手の意表に出る乱暴を加えてタタキ伏せた。
彼の乱暴とピストルは仲間の敬意の焦点となった。
警視庁を横目に睨んで脅迫
彼は遂に警視庁に挙げられて処分されたが、出獄すると間もなく、嘗て警視庁の巡査の先生であった有名な武術家某氏を単身訪問して暇乞いをした。
「今から東京を立ち去るから、旅費二百円程頂きたい」
と要求した。
武術家某氏は言下に拒絶した。
彼は黙って懐中から短銃を取り出して見せた。
「今この中に六発の弾丸が這入っております。その第六発目で貴方を撃つのですから、そのつもりで見ていて下さい」
と念を押して、悠々と一発放った。その弾丸は武術家某氏の耳朶とスレスレに飛んで天井を貫いた。
某氏は粛然としていた。
――二発――三発――四発――。
皆耳とスレスレに飛んだ。
――五発――。
武術家某氏は手を挙げて制止した。望み通りの金を与えた。
これは今日迄秘密にされているという。
彼はその金を持って有力な乾児と共に東京を出た。各所の有名な富豪を訪れて金を強要したが、
「今日金が無ければ、明日《あす》何時に貰いに来る。警察に訴えるのは自由である」
といった調子であった。その中の一つで釜山《ふざん》に起った事件は、その当時、本紙にも載ったから思い出す人もあるであろう。
彼は満州から支那方面に去ったらしく、その後の消息は聴かぬ。
文化式不良学
今の東京にはこんな非文化式は流行《はや》らぬ。その代り文化式が全盛で、極印付きが三千何百も居るのだからウンザリする。今から二十何年前の非文化旺盛時代が坐《そぞ》ろになつかしまれる位である。
こんな文化式不良の札付きになると、東京市内外の不良の系統がわかって来る。同時に不良学上の智識と興味がズンズン付いて来る。
第一に東京市中の案内が、親の家の中よりもよくわかって来る。それも町筋や電車系統位の事でない。眼ぼしい店ならば、その営業振りや店員の顔ぶれ、お客の筋。工合のよさそうな異性の家ならば、その内情や生活振り、家の構造、近所との関係なぞを、その家の主人よりもよく知るようになる。
警察や憲兵署員の顔と名前、性質等は特に大切である。交番の所在はもとより、抜け路地や飲食店の案内、眼じるしになる家とか木や石の形まで、必要に応じて記憶して、抜け目なく利用し得るようになる。
警官達を親友みたようにしているのも居る。手先になっているのも居るらしい。
世間が馬鹿に見える
不良学の中で最も六ヶ《むずか》しく、面白いのは、他人の心理を見抜く術と、その隙《すき》に乗ずる呼吸である。これは普通の世渡りにも必要なものであるが、不良の方の術と呼吸は世間並の裏を行くのだから六ヶ《むずか》しい。
人間の心理を、大人と子供、男と女、又は職や生活に依って区別して、あらかたこんなものと飲み込んでいるばかりでない。その場の調子に依って自分の心理状態までも一瞬間にかえてしまって、相手の気持ちに吸付いたり、又は薄トボケて捕まり損ったりする術と呼吸の必要は、不良生活の到る処に出て来る。理想的に云えば実世間の名優でなければならぬ。
この辺まで研究が積むと、人間が皆馬鹿に見えて、面白くてたまらない。講談本や探偵小説にある巨盗怪賊の忍術は、こんな事を云ったものかと思われると吹き立てる不良さえある。無論当てにはならないが……。
現代の教育には、この人間学の一科目が欠けているため、学生は皆、学校を出てからポツポツ研究に取りかからねばならぬ。それは不良は早くから裏面的に研究して、ドシドシ実際に応用している。世間見ずの令息令嬢が引っかかるのも無理はない。
ところで、そんな人間学の先輩――不良学のお手本が日本一に集中しているのは東京である。
場所に依って違う不良の種類《たち》
東京の不良は場所に依ってタチが違うようである。土質に依って植える草が違うのと同じわけであろう。
浅草は主として脅迫や誘拐で、千住方面は相も変らず遊廓や魔窟相手のゴロが多い。神田、本郷、早稲田方面は書物泥棒や下宿屋荒し、麹町、青山、牛込、渋谷あたりへかけては誘拐や色魔式が横行する。又、下町一帯は万引やカフェーゴロの仕事場で、山の手は色魔や詐欺の本場と云ってよかろう。東京市外となるとそんなのがゴッチャで、しかも盛《さかん》に行われる。飲み逃げや喰い逃げは無論全部共通である。
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