医学士

 吾輩はツカツカとその金網に近づいてブルブル震えている犬《やつ》を抱き上げた。犬さえ見付かれや他に用は無い。持って帰って山木テル子嬢に引渡せばいい……と思って抱き直すトタン犬の肋骨がゾロッと手に触ったのでゾッとしてしまった。見るとアンマリ弱り方が甚しい。骨と皮ばかりになっている上に、鼻の頭がカラカラに乾いてしまって、瞳孔の開いた眼脂《めやに》だらけの眼で悲しそうに吾輩を見上げているが尻尾を振る元気も無いらしい。一体これはどうした事かと、明るい窓の下へ持って行ってよく見ると、弱っている筈だ。咽喉《のど》を切り開いて金属製の鵯笛《ひよぶえ》みたいなものを嵌《は》め込まれている。その小さいブリキ板の中央の穴からスウスウと呼吸をしているのが如何にも苦しそうだ。よくジフテリヤに罹《かか》った子供が、咽喉が腫《は》れ塞《ふさ》がって咽喉切開の手術をされたあとに嵌めてもらっているアレだ。こうした錻力《ぶりき》製の呼吸孔の事を医学用語ではカニウレと云うのだが、和訳したら金属製咽喉笛とでもなるのかな。
 さてはこのフォックス・テリヤ氏、UTA《ウータ》君はジフテリヤにでも罹《かか》ったのかな。そうとすればこの容態ではトテモ助からない。おまけに熱も相当に在るようだが……弱ったな。黙って持って行くつもりだったが、コンナ容態では持って帰るうちにグウタになっちまうかも知れない。ハテ、何とか方法は無いものか……と、ガタガタ震えている犬を抱えてシキリに考えているところへ、背後から音もなく猫のように忍び寄って来て、吾輩の肩にソット手を置いた奴が居る。振返ってみると、タッタ今考えていた当の本人の羽振医学士だ。悪いところへ来やがったと思ったが、しかし何度会ってもいい男だ。毛唐《けとう》で破廉恥脳《バレンチノ》という女たらしの映画俳優が居たがソイツによく肖《に》ている。頭をテカテカに分けて白い診察服を着込んでいる恰好はモウ立派な博士様だ。
「……今日は……鬚野先生。いい犬が見付かりましたかね」
「イヤ、今日は駄目だ。それよりもこの犬はドウしたんかい。ジフテリヤでもやったんかい」
「アッ、この犬ですか」
「知っとるのかい、この犬を……」
「存じております。一ヶ月ばかり前に頂戴しましたフォックス・テリヤで……」
「そうじゃない。この犬がどこの家の犬だか知っとるのかと云うんだよ……君が……」
「……………」
 羽振医学士の顔がサット青くなった。どうやら知っているらしい眼の玉の動かし方だ。
「知らん筈はないじゃろう。あの家《うち》の犬ということを」
「存じません。ドコの犬だか……貴方がどこかからかお持ちになったのですから……」
「この犬は山木テル子さんの犬だよ」
「ヘエ、山木テル子さん……存じませんな、ソンナ方……」
「ナニ知らん……」
「ハイ、まったく……その……」
「ウン、キット知らんか……」
「……ぞ……ぞんじません。そんな方……まったく……」
 博士の卵が汽車の信号みたいに青くなったり赤くなったりした。しかし汽車の信号でも何でもモウ相場がきまっている。自分が結婚を申込んだ女の名前を忘れるようなウンテレガンが在るもんじゃない。コイツは多分、この犬の名前がウータといって、自分の恋敵《こいがたき》、唖川歌夫からテル子嬢に贈ったものである事もチャンと知っていやがるに違いない。そいつを承知でコンナ非道《ひど》い眼に合わせて、いい気持になっている事が吾輩にわかったら事が面倒だと思って、障《さわ》らぬキチガイ祟《たた》りなし式に、最初から警戒しいしい口を利いているのだろう。コンナ誠意のない奴にあの親孝行無双の断髪令嬢を遣る訳には断然イカン。
「フン、知らんなら知らんでええ。その代りにこの犬の病気を出来るだけ早く治癒《なお》せ」
「アッ。そ……そいつはドウモ……」
「出来んと云うのか」
 吾輩の見幕を見た羽振医学士がブルブル震え出した。すこしずつ後退《あとしざ》りをし始めた。
「ハ……ハイ。それはソノ……結核の第三期にかかっておりますので……ハイ……」
「変な事を云うな。最初から第三期か」
「イエ。その最初が初期で……その次が第二期で……」
「当り前の事を云うな。篦棒《べらぼう》めえ。最初から結核だったのか、この犬は」
「ソ……それがソノ……実験なんで……」
「何の実験だ……」
「それがソノ……今までジフテリヤにかかって手遅れになりますと、咽喉切開をして、その切開した部分へコンナ風にカニウレを嵌めます。ところがそのカニウレの穴から呼吸をすると色々な呼吸器病にかかる事がありますので……」
 アンマリ真面目腐って講釈をするもんだから吾輩はちょっと嘲笑《あざわら》ってみたくなった。

     惜しい鼻柱

「フウム。このカニウレを嵌《は》めた奴は人間でも犬猫でもこの通りチョ
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