たものだから忘れてしまったわい」

     支那料理

「あれから私いろいろと苦労致しましたわ。両親に死別れてから芸妓《げいしゃ》になったり、落語家《はなしか》の兄さんとくっ付いて料理屋を始めたり、それから上海に渡って水商売をやったりして、いくらか大きく致しておりますうちに、上海の戦争で亭主の行方がわからなくなりますし、御贔屓《ごひいき》の旦那様からは見放されるしでね。いくらかスコ焼けになりまして……先生にお隠ししたって始まりませんから、真実《ほんと》のところを申上げるんですけど……私を見放した人には怨《うら》みが残っておりますし、ここに居ります娘さん達が、私から離れませんものですから、一つ乗るか反《そ》るかで日本へ帰りまして、やっと二三箇月前にこんな横ッチョへ店を開きましたのに、モウ先生がお出で下さるなんて縁起がいいどころじゃ御座いませんわ。あたしゃ嬉しくって嬉しくって、胸がモウ一パイ……」
 と云ううちに吾輩の胸へ縋《すが》り付きメソメソ泣き出した。
「いい加減にしろよ。若い女たちが見てるじゃないか。モウ一遍俺の手に縋って辻占を売りに出る年でもあるめえ」
「……これからもドウゾこの店の事を、よろしくお頼み申上ます……誰も……どなたも……相談相手になって下さる方がないのですから」
「フウム、成る程。そういえば何もかも新しいようだナ。何だってコンナ処に支那料理屋なぞ作ったんだ」
「ホホホ。恐れ入ります。どうも表通りにはいい処が御座いませんので、それに支那料理なんて申しますと、どうも横町じみた処が繁昌いたしますようで……」
「イカニモなあ、ところでホントに支那料理が在るのか」
「オホホ。御冗談ばかり。チャント御座いますわ」
「怪しいもんだぜ。真昼間《まっぴるま》、表を閉めて、女将さんが二階でグウグウ午睡《ひるね》をしている支那料理といったら大抵、相場はきまってるぜ」
「ホホ。相変らずお眼鏡で御座いますわねえ。どうぞ御遠慮なく御贔屓に……ヘヘヘヘ……」
「変な笑い方をするなよ。今日は飯を喰いに来たんだ。腹が減って眼が眩《くら》みそうなんだよ」
「……まあ……気付きませんで……御酒《ごしゅ》はいかが様で……」
「サア。酒を飲むほど銭《ぜに》があるかどうか」
「ホホホ。御冗談ばかり。いつでも結構で御座いますわ。見つくろって参りましょうね」
「ウム。早いものがいいね。それか
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