シイン……」
 と云う女将《おかみ》らしい声がして、コック部屋兼帳場の入口の浅黄色の垂幕の蔭から、色の青黒い、眦《まなじり》の釣上った、ヒステリの妖怪《おばけ》じみた年増女の顔が覗いたと思うと、茫然として突立ている吾輩とピッタリ視線を合わせた。
「アラッ……先生じゃ御座いませんの……まあ……お珍らしい……よくまあ」
 と云ううちに浅黄色の垂幕を紮《から》げて出て来た。生々しい青大将色の琉球|飛白《がすり》を素肌に着て、洗い髪の櫛巻《くしまき》に、女たちと同じ麻裏の上草履《うわぞうり》を穿《は》いている。コンナ粋な女に識合いはない筈だがと、吾輩が首をひねっているにも拘《かか》わらず、女将は狃《な》れ狃れしく近寄って来て、溢《あふ》るるばかりの愛嬌を滴《したた》らしながら椅子をすすめた。

     拳骨辻占

「まあ……どうも飛んだ失礼を致しまして……場所慣れない若いものばかりなもんですから……お見外《みそ》れ申しまして……さあどうぞ……ほんとにお久し振りでしたわねえ。御無沙汰ばかり……」
「馬……馬鹿云え。お珍らしいって俺あ初めてだぞ。お前みたいな人間には生れない前から御無沙汰つづきなんだぞ……テンデ……」
「オホホホホホホホ……」
 女将の嬌笑が暗い部屋に響き渡った。その背後《うしろ》の浅黄幕《あさぎまく》の間から、ビックリ人形じみた女たちの顔が、重なり合って覗いている。
「オホホホ……恐れ入ります。まったくで御座いますよ先生。この町中の水物屋《みずものや》で、先生のお顔を存じ上げない者は御座いませんよ」
「ハハア。俺に似た喰逃《くいにげ》の常習犯でも居るのか……」
「まあ、御冗談ばかり……それどころでは御座いませんよ先生。先生のお払いのお見事な事は皆、不思議だ不思議だって大評判で御座いますよ」
「ううむ。扨《さて》は夜稼《よかせ》ぎ……という訳かな」
「そればかりでは御座いませんよ。いつも一杯めし上ると声色《こわいろ》使いや辻占《つじうら》売り、右や左なんていう連中にまで、よくお眼をかけ下さるので、そのような流し仲間では先生のお姿を拝んでいるので御座いますよ。先生は福の神様のお生れ変りで、いつもニコニコしておいでになるから縁起《えんぎ》がよいと申しましてね。どこの店でも心の中で先生のお出でを願っているので御座いますよ先生……」
「……ああ、いい気持ちだ。汗ビッシ
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