なくちゃ嘘だ。
 篦棒《べらぼう》めえ、キチガイだって腹は減るんだ。猿の出世したのが人間で、人間の立身したのがキチガイで、キチガイの上が神様なんだから、まだ全智全能とまでは行きかねる吾輩だ。腹が減って相談相手が欲しくなるのは当り前だ。
 どこか美味《うま》そうな安いものを売っている店はないか知らんとそこいらを見まわしたが、何しろ学校の近くだから見渡す限り本屋、文具屋、牛乳店、雑貨商みたいなものばかりだ。腹の足しになりそうな店なんか一軒もない。
 ところがそこから二三十歩あるく中《うち》に……見付かった。狭い横路地のズッと奥の行止りの処に赤い看板が見える。近寄ってみると真赤な硝子《がらす》に金文字で「御支那料理」「上海亭《シャンハイてい》」と書いて在る。どうせインチキの支那料理だろうと思って近寄ってみると豈計《あにはか》らんや、インチキでない証拠に、店の張出し窓の処にワンタン十銭、シウマイ十銭、チャアシュウ十銭、支那ソバ五十銭と書いた木札を立てて実物が陳列して在る。その上の棚に色んな形の洋酒の瓶がズラリと並んでいるが、コイツも本物とすれば大したものだ。
 吾輩の咽喉《のど》がキューと鳴った。先ず劈頭《へきとう》のヒットを祝するつもりで一杯傾けるかナ。
 表の硝子扉《がらすど》を押して中に這入ると真暗だ。おまけにシインとしていて鼠一匹動かない。コンナ飲食店はお客が這入ると直ぐに黄色い声で「イラッシャイ」と来ないと這入る気にならないもんだ。ドンナ名医でも病室に這入ると直ぐに「イカガデス」とニッコリしない奴は、病人の方でホッとしないもんだ……何《なん》かと考えながらアンマリ静かなので不思議に思って、直ぐ横の自由|蝶番《ちょうつがい》になった扉をグーッと押開くと驚いた。
 瓦斯《がす》ストーブの臭気が火事かと思うほどパアッと顔を撲《う》った。
 同時に耳の穴に突刺さるような超ソプラノが、一斉に「キャーッ」と湧起《わきおこ》ったと思うと、若い女の白い肉体が四ツ五ツ、揚板をメクられた溝鼠《どぶねずみ》みたいに、奥の方へ逃込んで行った。
 お客様を見てキャーッと云う手はない。しかもダンダン暗がりに慣れて来た眼でそいつ等の後姿を見ると、揃いも揃った赤い湯もじ一貫の丸裸体《まるはだか》で髪をオドロに振乱しているのには仰天した。真昼《まっぴる》さ中《なか》から化物屋敷に来たような気持にな
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