笑い出した。吾輩も可笑《おか》しくなったので、血を滴《た》らし始めている貴婦人の鼻の頭を、運転手が置いて行った小さなノートブックの間から出て来た二三枚の名刺で押えてやりながらアハアハアハと笑い出した。
「奥さん奥さん。いい加減に起きて歩いたらどうです。いつまでもここに寝てたって際限がありませんよ」
と片手で貴婦人の肩を揺り動かしてみた。
「無理だよソレア……先生。死んでんだもの……」
皆がドッと笑い出した。貴婦人の両眼から涙がニジミ流れ始めた。人生コレ以上の悲惨事は無い。自分の死骸に対して世間の同情が全く無い事を知った美人の気持はドンナであろう。どうも弱った事になって来た。そのうちにどこかの茶目らしいクリクリ頭に詰襟服の小僧が、群集の背後《うしろ》から一枚の紙片《かみきれ》を拾って来て、吾輩の眼の前に突出した。
「先生。これあ今の紙じゃないですか」
「ウン吾輩が書いてやった処方だ。運転手が逃げがけに棄てて行ったものらしいな。交通巡査は流石《さすが》に眼が早い」
「だって先生。名刺の挟まったノートを落して行ったんじゃ何にもならないでしょう」
鳴りを鎮《しず》めていた群集が又笑い出した。
「ウーム。豪《えら》いぞ小僧。今に名探偵になれるぞ」
「……そ……そんなんじゃありません」
「そんなら済まんがお前、その薬を買って来てくれんか。そこに落ちているこの奥さんのバッグに銭《ぜに》が這入《はい》っているだろう」
「だって……だって。そんな事していいんですか」
「構わないとも。早く買って来い。奥さんが死んじゃうぞ」
と背後《うしろ》の方から野次馬の一人が怒鳴った。しかし小僧はなおも躊躇した。
「ちょっと待って下さい。何と読むんですか。この最初の字は……」
「うん。それはトンプクと読むんだ」
「トンプク……ああわかった。頓服《とんぷく》か……ええと……メートル酒十銭……」
「馬鹿。メントール酒と読むんだ。早く行かんか」
「待って下さい。薬屋で間違うといけねえから、その次は?」
「ナカナカ重役の仕込みがいいな貴様は……チャッカリしている。それは硼酸軟膏《ほうさんなんこう》と万創膏《ばんそうこう》と脱脂綿だ。薬屋に持って行けばわかる。早く行け、この奥さんの鼻の頭に附けるんだ」
「オヤオヤア。いけねえいけねえ。これあ駄目ですよ先生……」
「何が駄目だ」
「チャアチャア。このバッ
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