い神経衰弱にかかっていた者だが、自分の死後、精力絶倫の亜黎子夫人が必ず不倫の行跡に陥るべきを予想し、嫉妬の念に堪《た》えず、これに対する深刻な復讐の準備を整えていた。すなわち自分の建てた図書館内の豪華を極めた寝室に、自分の死後三年目の或る夜半に相違なく発火するように工夫した精巧な時計仕掛の爆薬を装置していたものであるが、そのような事実を夢にも知らなかった淫婦の亜黎子は、亡夫の予想通りに有名なる曲芸師の不良少年をその室《へや》に引っぱり込み不義の快楽に耽っていた結果、まんまと首尾よく亡夫の詭計《きけい》に引っかかったのが、この大爆発の真相に相違ないのである。敏腕を以て聞こえた当局も、流石《さすが》に斯様《かよう》な超特急の椿事《ちんじ》に遭遇しては呆然《ぼうぜん》として手の下しようもなく……云々……といったような事を筆を揃えて書立てていたが、流石《さすが》の吾輩もこの記事を見た時には文字通り呆然、唖然としてしまったね。日本の新聞記者が、これ程までに素晴らしい創作家だとはこの時まで気が付かなかったからね。
……ナアニ……あの実験室に立入る人間は亜黎子未亡人だけだからね。多分、彼女が吾輩の留守中に眼を醒まして、吾輩が作り溜めていた液体火薬に手を触れるかドウかしたんだろう。アルコールに溶いた甘ったるい、赤黄色い火薬を、ベルモットの瓶に詰めて、塩と氷に詰めて冷蔵しておいたんだから、事によると酒と間違えて未亡人が喇叭《ラッパ》を吹いたのかも知れない。そいつが腹の中の体温で発火してアレヨアレヨと驚くトタンに、三町四方の霊魂がフッ飛んだんだから思い残す事は無いだろう。もちろん吾輩もアンナに猛烈な炸裂力を持っていようとは思わなかった。分量が二倍の時には四倍の熱……四倍の時には二百五十六倍の高熱を発する事だけは知っていたがね。アトでその爆発の遺跡《あと》をコッソリと見に行った時には文字通り「人間万事夢だ」と思ったね。直径二三町、深さ二十間ぐらいの摺鉢形《すりばちがた》の穴が残っていただけだからね。それ以来何もかも夢だという事をハッキリ自覚した……女ばかりじゃない。人間万事が何一つ当てにならない事を自覚した吾輩は、越中褌《えっちゅうふんどし》の紐《ひも》が切れたみたいな人間になってしまった。する事|為《な》す事が、一つも手に附かない。面白くも可笑《おか》しくもないが、そうかといって死に
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