たんで……実際眼が眩《くら》んじまいましたよマッタク。いい芳香《におい》が臓腑《はらわた》のドン底まで泌《し》み渡りましたよ。そうなると香水だか肌の香《におい》だか解かれあしません。おまけにハッキリした日本語で、
「まあ……よく来てくれたねえ、アンタ」
 と来たもんです。
 トタンに前後の考えなんか、笠の台と一緒にどっかへふッ飛んじゃいましたね、キチガイが焼酎《しょうちゅう》を飲んで火事見舞に来たようなアンバイなんで……暫くして女がスクリンを上げてから気が付いてみると、その馬車の走り方のスゴイのにチョット驚きましたよ。ほかの馬車をグングン抜いて行くので、金ピカ服の交通巡査が何度も何度も向うから近付いて来て手を揚げて制止《とめ》にかかったようでしたが、私等《あっしら》の馬車に乗っている黒い頬鬚《ほおひげ》を生《はや》した絹帽《シルクハット》の馭者がチョット鞭《むち》を揚げて合図みたいな真似をすると、どの巡査もどの巡査も直ぐにクルリと向うを向いて行っちまったんです。
 それが右へ曲っても左に曲っても、どこまで行ってもどこまで行ってもそうなんですから、あっし[#「あっし」に傍点]はだんだん不思議になって来ましたが、アトから聞いてみると無理もない話です。その馭者というのが旦那様……聖路易《セントルイス》切ってのギャングの大親分で、カント・デックてえ凄い奴だったそうです。聖路易《セントルイス》の町中の巡査はミンナこのデックの乾分《こぶん》みてえなものだったってえんですから豪勢なもんで……しかも一緒に乗っている支那娘のチイ嬢《ちゃん》と、もう一人のフイ嬢《ちゃん》とは揃いも揃ってこのカント・デックの妾《めかけ》だって事がそんな時のあっし[#「あっし」に傍点]にわかったら、そのまんま目を眩《まわ》しちゃったかも知れませんね。地球が丸いどころの騒ぎじゃ御座んせんからね。
 それでなくとも何だか少々、薄ッ気味が悪くなりかけているところへ馬車が止って、一軒の立派な明るい店の前に着きました。チイ嬢《ちゃん》はそこであっし[#「あっし」に傍点]のキタネエ首根ッ子に今一つキッスをしますと、あっし[#「あっし」に傍点]の手を引きながらその店の中に這入って行きましたが、それは大きなレコード屋だったんですね。スバラシイ花輪や流行児《はやりっこ》の歌い手らしい男や女の写真が、四方の壁一パイに並んでいる店の広間へ、縦横十文字に並んだ長椅子に凭《よ》りかかった毛唐と女唐《めとう》とが、フロック張りの番頭や手代の鳴らすレコードを知らん顔をして聞いていたようです。
 その横ッチョの木煉瓦張《もくれんがば》りの通路《とおりみち》をやはり女に手を引かれながら通り抜けて、奥の行当りのドアを抜けるとヤット肩幅ぐらいの狭い廊下に出ました。その廊下は向う下りになっていて、黒いマットが一面に敷いて在るために足音も何もしないまま地下室へ降りて行くようになっていたらしいんですが、その中《うち》に右に曲ったり左に折れたりして扉《ドア》を三つか四つぐらい潜って、もうだいぶ下へ降りたナ……と思ったトタンに廊下の天井に点《つ》いていた電燈が突然《だしぬけ》に消えちゃって真暗闇《まっくらやみ》になっちまいました。それがチイ嬢《ちゃん》の顔の見納めだったんで……今度目、見た時は夕刊の新聞で手錠をかけられた笑い顔で、その次に見たのはデックと並んで死刑の宣告を受けている写真ニュースの横顔でしたがね。
 もちろんソン時のあっし[#「あっし」に傍点]にゃそんな事がわかりっこありゃせん。神様だって知らなかったんですから……それと一所《いっしょ》に女も手を放しちゃったんですから、あっしはタッタ一人真暗闇の中に取残されちゃったんで……往生しましたよ。まったく。
 それでもまだ自惚《うぬぼ》れが残っていたんですから感心なもんでげしょう。さては女がイタズラをしやがったんだナ……ヨオシ……その気ならこっちでも探り出して見せるぞ……てんで鬼ゴッコみたいに手探りで向うの方へ行きますと、いつの間にか廊下の行当りの扉《ドア》を通り抜けて一つの立派な部屋に出ていたんですね。不意討ちにパッとアカリが点《つ》いたのを見ると、太陽が二十も三十も一時に出て来たようで今度こそホントウに腰を抜かすところでしたよ。何しろそこいら中反射鏡ダラケの部屋に、天井一パイの花電燈が点《つ》いたんですからね。
 世の中には立派な部屋が在れば在るもんだと思いましたねえ。この節なら銀座へ行けあアレ位の部屋がザラに在るんですから格別驚かなかったかも知れませんがね。何の事はない、竜宮みてえな金ピカずくめの戸棚や、椅子、テーブル、花束や花輪で埋まった部屋なんで、ムンムンする香水の匂いで息が詰りそうな中にタッタ一人突立っている見窄《みすぼ》らしいあっし[#「あっし
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