た、あの外套《がいとう》を出しとけ。チエ子の赤い羽根のやつを……。あれは俺が倫敦《ロンドン》で買ったのじゃが、日本に持って来ると五十両以上するシロモノだ。ここいらの家《うち》の児であんなのを着とるのはなかろう……ウンないじゃろう。ない筈だ。ウン……。あれを着せて二人で行って来るからナ……貴様は頭痛がするんなら先に寝とれ……座敷に瓦斯《ガス》ストーブを入れてナ……ハハ久し振りに川の字か。ハハン……しかし要心せんといかん……」
「それほどでもないんですけれど、永いこと丸髷に結わなかったせいかもしれません」
 と母親は、お茶をさしながら甘えるような、悄気《しょげ》た声で云った。
「イヤ……いかんいかん。そんな事を云って無理をしちゃいかん。今年は上海《シャンハイ》のチブスがひどいからな。……ナニ俺か。俺は大丈夫だ。この上からマントを着てゆく。帽子は鳥打《とりうち》がええ。ウン。それからトランクの隅にポケットウイスキーがあるから、マントのポケットに入れとけ……日本は寒いからナ……ハハハハハ」

       五

 活動を見ながらウイスキーをチビリチビリやっていた父親は、いよいよいい機嫌になって帰りかけた。
 四谷見付《よつやみつけ》で電車を降りると、太い濁った声で、何か鼻唄を歌い歌い、チエ子と後になり先になりして来たが、やがて嫩葉《わかば》女学校の横の暗いところに這入ると、ちょうど去年の秋に、母親と立ち止まったあたりで、チエ子は又ピッタリと立ち止まった。
「オイ。早く来んか。怖いのか……アアン……サ……お父さんが手を引いてやろ……」
 と、二三間先へ行きかけた父親が、よろめきながら引返してみると、チエ子は暗い道のまん中に立ち止まって、一心に大空を見上げている。
「何だ……何を見とるのか」
「……あそこにお母さまの顔が……」
「フ――ン……どれどれ……どこに……」
 と父親は腰を低くして、チエ子の指の先を透かしてみた。
「ハハア……あれか……ハハハハ……あれは星じゃないか。星霧《せいむ》ちうもんじゃよあれは……」
「……デモ……デモ……お母様のお顔にソックリよ……」
「ウ――ム。そう見えるかナア」
「……ネ……お父さま……あの小さな星がいくつもいくつもあるのがお母さまのお髪《つむ》よ……いつも結っていらっしゃる……ネ……それから二つピカピカ光っているのがお口よ……ネ……」
「……ウーム。わからんな。ハハハハハ……ウンウンそれから……」
「それから白いモジャモジャしたお鼻があって、ソレカラ……アラ……アラ……あのオジサマの顔が……あんなところでお母さまのお顔とキッスをして……」
「アハハハハハハハ…………冗談じゃないぞチエ子……何だそのオジサマというのは……」
「……あたし、知らないの……デモネ……ずっと前から毎晩うちにいらっしてネ……お母様と一緒にお座敷でおねんねなさるのよ。あんなにニコニコしてキッスをしたり、お口をポカンとあいたり……」
 と云いさしてチエ子は口を噤《つぐ》んだ。ビックリしたように眼を丸くして、父親の顔を見た。
 しゃがんでいた父親は、いつの間にか闇の中に仁王立《におうだ》ちになっていた。両手をふところに突込んだまま、チエ子の顔を穴のあくほど睨《にら》みつけていた。
 チエ子はそれを見上げながら、今にも泣き出しそうに眼をパチパチさした。そうして、云いわけをするかのようにモジモジと、小さな指をさし上げた。
「……こないだは……アソコに……お父さまのお顔があったのよ……」



底本:「夢野久作全集3」ちくま文庫、筑摩書房
   1992(平成4)年8月24日第1刷発行
底本の親本:「日本探偵小説全集 第十一篇 夢野久作集」改造社
   1929(昭和4)年12月3日発行
入力:柴田卓治
校正:江村秀之
2000年7月4日公開
2006年3月10日修正
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