たのであった。
 それ以来母親はまた、不思議に家《うち》に居つくようになった。朝のお化粧もやめてしまったが、その代りに夕方になると急にソワソワし出して、お湯に行ったり、おめかしをしたりして、まだ明るいうちに夕飯を仕舞うと、女中とチエ子を追い立てるようにして寝かした。そうして、チエ子が一度でも朝寝をすると、その晩から丸薬を一粒|宛《ずつ》殖《ふ》やしたので、一と月と経たないうちに、粒の数が最初の時の倍程になった。
 チエ子は一日一日と瘠せ細って、顔色がわるくなって来た。

       四

 そのうちに、あくる年の二月の末になって、チエ子の父親が、長い航海から帰って来たが、玄関に駈け出して来たチエ子を見ると、ビックリして眼を瞭《みは》った。
「どうしてこんなになったのか」
 と、短気らしく大きな腕を組んで、あとから出て来た母親にきいた。しかし母親がまじめな顔をして、何か二言三言《ふたことみこと》云いわけをすると、間もなく納得したらしく、組んでいた腕をほどいて元気よくうなずきながら、靴をスポンスポンと脱いだ。
 それから褞袍《どてら》に着かえて、チエ子と並んで夕飯のお膳について、何本もお銚子を傾けた父親は、赤鬼のようになりながら大きな声で、今度初めて行った露西亜《ロシア》の話をした。そのあいまあいまにチエ子がこの頃は特別に温柔《おとな》しくなった話をきかされたり、久し振りに結《ゆ》ったという母親の丸髷《まるまげ》を賞めて、高笑いをしたりしていたが、そのあげく、思い出したように柱時計をふり返ってみると、飯茶碗をつき出して怒鳴った。
「オイ飯だ飯だ。貴様も早く仕舞って支度をしろ。これから三人で活動を見に行くんだ」
「エ…………」
「活動を見にゆくんだ……四谷に……」
 お給仕盆をさし出しかけていた母親の顔がみるみる暗くなった。魘《おび》えたような眼つきで、チエ子と、父親の顔を見比べた。
「何だ……活動嫌いにでもなったのか」
 と父親は箸《はし》を握ったまま妙な顔をした。母親は、泣き笑いみたような表情にかわりながら、うつむいて御飯をよそった。
「そうじゃありませんけど……あたし今夜何だか……頭が痛いようですの……」
 父親は平手で顔を撫でまわした。
「フ――ン。そらあいかんぞ。半年ぶりに亭主が帰って来たのに、頭痛がするちう法があるか……アハハハハまあええわ、それじゃ去年送った、あの外套《がいとう》を出しとけ。チエ子の赤い羽根のやつを……。あれは俺が倫敦《ロンドン》で買ったのじゃが、日本に持って来ると五十両以上するシロモノだ。ここいらの家《うち》の児であんなのを着とるのはなかろう……ウンないじゃろう。ない筈だ。ウン……。あれを着せて二人で行って来るからナ……貴様は頭痛がするんなら先に寝とれ……座敷に瓦斯《ガス》ストーブを入れてナ……ハハ久し振りに川の字か。ハハン……しかし要心せんといかん……」
「それほどでもないんですけれど、永いこと丸髷に結わなかったせいかもしれません」
 と母親は、お茶をさしながら甘えるような、悄気《しょげ》た声で云った。
「イヤ……いかんいかん。そんな事を云って無理をしちゃいかん。今年は上海《シャンハイ》のチブスがひどいからな。……ナニ俺か。俺は大丈夫だ。この上からマントを着てゆく。帽子は鳥打《とりうち》がええ。ウン。それからトランクの隅にポケットウイスキーがあるから、マントのポケットに入れとけ……日本は寒いからナ……ハハハハハ」

       五

 活動を見ながらウイスキーをチビリチビリやっていた父親は、いよいよいい機嫌になって帰りかけた。
 四谷見付《よつやみつけ》で電車を降りると、太い濁った声で、何か鼻唄を歌い歌い、チエ子と後になり先になりして来たが、やがて嫩葉《わかば》女学校の横の暗いところに這入ると、ちょうど去年の秋に、母親と立ち止まったあたりで、チエ子は又ピッタリと立ち止まった。
「オイ。早く来んか。怖いのか……アアン……サ……お父さんが手を引いてやろ……」
 と、二三間先へ行きかけた父親が、よろめきながら引返してみると、チエ子は暗い道のまん中に立ち止まって、一心に大空を見上げている。
「何だ……何を見とるのか」
「……あそこにお母さまの顔が……」
「フ――ン……どれどれ……どこに……」
 と父親は腰を低くして、チエ子の指の先を透かしてみた。
「ハハア……あれか……ハハハハ……あれは星じゃないか。星霧《せいむ》ちうもんじゃよあれは……」
「……デモ……デモ……お母様のお顔にソックリよ……」
「ウ――ム。そう見えるかナア」
「……ネ……お父さま……あの小さな星がいくつもいくつもあるのがお母さまのお髪《つむ》よ……いつも結っていらっしゃる……ネ……それから二つピカピカ光っているのがお口よ……ネ……」

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