「……よろしい……もうすこし云って聞かせる……近い中《うち》に独逸の艦隊が、英仏の聯合艦隊をドーバーから一掃してテイムス河口に殺到する。そうしたら倫敦《ロンドン》は二十四時間の中《うち》に無人の廃墟となるであろう。一方にヴェルダンが陥落してカイゼルの宮廷列車が巴里《パリ》に到着する。逃場を失った聯合軍はピレネ山脈とアルプス山脈の内側で、悉《ことごと》く殲滅《せんめつ》されるであろう。独逸の三色旗が世界の文化を支配する暁が来るであろう。その時に汝等は一人残らず戦死しておれよ。それを好まない者はたった今銃殺してやる。……味方の弾丸を減らして死ぬるも、敵の弾丸を減らして死ぬるも死は一つだ。しかし光栄は天地の違いだぞ……わかったか……」
「わかりました」
大佐は演説の身ぶりをピタリ止めて、厳正な直立不動の姿勢に返った。右手を揚げて列の後尾を指した。
「……よし行け……その左翼の小さい軍曹……汝の負傷は一番軽い上膊《じょうはく》貫通であろう。汝……引率して戦場へ帰れ。負傷が軽いので引返して来ましたと、所属部隊長に云うのだぞ……ええか……」
「……ハッ……陸軍歩兵軍曹……メッケルは負傷兵……八十……四名を引率してヴェルダンの戦線に帰ります。軽傷でありましたから帰って来ましたと各部隊長に報告させます」
「……よろしい……今夜の事は永久に黙っておいてやる……わかったか……」
「……わかりました。感謝いたします」
「……ヤッ……ケンメリヒ中尉。御苦労でした。兵を引取らして休まして下さい。御覧の通り片付きましたから……ハハハ……」
そんな風に、急に気軽く砕けて来た軍医大佐のあたたかい笑い声を聞くと同時に、私の全身がゾオッと粟立《あわだ》って来た。頭の毛が一時にザワザワザワと逆立《さかだ》ち初めた。……今までの出来事の全体が、一種の極端な芝居ではなかったか……といったようなアラレもない感じが、頭の片隅にフッと閃めいたからであった。
それは今の今まで、この鋼鉄製の脳髄を持った軍医大佐から、あまりにも真剣過ぎる超自然的な試練に直面させられて、ヘトヘトにまでタタキ附けられている私の脳髄が感じた一種の弱い、しかし強く鋭い一種の幻覚錯覚であったかも知れない……。
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……ワルデルゼイ軍医大佐は元来、非常な悪党なのではあるまいか。西部戦線の裡面に巨大な巣を張りまわして、こうした方法で出征兵士の生血《いきち》を啜《すす》っている稀代の大悪魔なのではあるまいか。大佐は出征兵士の故郷の人々から金を貰って色々な不正な事を頼まれているのではあるまいか。
……戦争がその背後に在る国民の心を如何に虚無的にし、無道徳にし、且《か》つ邪悪にするかという事実は、吾が独逸の国民史を繙《ひもど》いてみても直ぐにわかる事である。しかも近代的な唯物観から来た虚無思想と、法律至上主義によってゲルマン民族の伝統的な誇りとなっていた吾が独逸国内の家庭道徳が、片端から破壊されつつ在る今日に於て勃発した戦争である以上、こうした崩壊の道程に在る家庭内の不倫、不道徳が、独逸軍の裡面に反映しない筈はないのである。
……出征兵士の中には、あの美少年候補生が話したような家庭の事情のために、是非とも殺されなければ都合の悪い運命を背負っている若い連中が何人、混交《まじ》っているかわからないであろう。その気の毒な犠牲候補たちが、万一にも負傷して後送される事のないように……又はソンナ連中が、故郷の事を気にかける余りに、自傷手段で戦線から逃出して来るような事がないように、大佐は平生から沢山の賄賂を貰って、シッカリと頼まれているのではあるまいか。
……だから、あんなに熱心に患者を診察して廻わったのではあるまいか。そうして、そんな連中を何でもない普通の自傷兵とゴッチャにして、あんな風に脅迫して、無理矢理に戦線へ送り返しているのではないか。……だから、私を利用して、その計略の裏を掻いた候補生が、あんなにニコニコと微笑しているのではなかろうか……。
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……といったような途方もない、在り得べからざる邪悪な疑いが、腸《はらわた》の底から湧き出す胴震いと一所に高まって来た。そうしてソンナような馬鹿馬鹿しい、苦痛にみちみちた悪夢からヤッと醒めかけたような……ホッとしたような気持になると同時に私は又、急に胸がムカムカして嘔きそうな気持になって来た。何とも感じなくなっていた屍臭と石油臭が、俄《にわか》に新しく、強く鼻腔を刺戟し初めた……が……そのまま無理に平気を装って、軍医大佐の背後に突立っていた。
そうした私の疑惑を打消すかのように、向い合っていた二条の一列横隊は、私たちの眼前で同時に、反対の方向を先頭にした一列縦隊に変化した。そうして一方は元気よく、勝誇ったように……一方は屠所《としょ》の羊のように、又は死の投影のように頸低《うなだ》れて、気絶した仲間を扶《たす》け起し扶け起し、月光の真下で別れ別れになって行った。
その別々の方向に遠ざかって行く兵士の行列をジイッと見送っている中《うち》に、私は又も、更に新しい、根本的な疑惑の中に陥って行った。
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……彼等は一体、何をしに行くのであろうか。
……戦争とは元来コンナものであろうか。彼等はホントウに戦争の意義を知って戦争に行くのであろうか。彼等が戦争に行くのは国のためでも、家のためでもない。ただワルデルゼイ大佐に威嚇されて、死刑にされるのが厭《いや》さにヴェルダンの方向へ立去るのではあるまいか。
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私はいつの間にか国家も、父母も、家庭も持たない、ただ科学を故郷とし、書物と器械と、薬品ばかりを親兄弟として生きて来た昔の淋しい、空虚な、一人ポッチの私自身に立ち帰っていた。
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……自分は伯林《ベルリン》を出る時に、カイゼルに忠誠を誓って来るには来た。しかし、それでも本心をいうと自分は、真実のゲルマン民族ではないのだ。彼等兵士とも、眼の前に突立っているワルデルゼイ氏とも全然違った人種なのだ。自分自身でも自分が何人種に属するかわからない単なる一個の生命……天地の間に湧き出した、医術と音楽のわかる小さな一匹の蛆虫《うじむし》に過ぎないのだ。
……その三界《さんがい》無縁の一匹の蛆虫が、コンナにまでも戦慄し、驚愕して、云い知れぬ良心の呵責をさえ受けている原因はどこに在るのだろう。
……一体自分はここへ何しに来ているのだろう。
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私はこの死骸の堡塁の中で、曾ての中学時代に陥った記憶のある、あの虚無的な、底抜けの懐疑感の中へ今一度、こうして深々と陥《は》まり込んでしまったのであった。今の疲れ切った頭では到底、泳ぎ渡れそうにない、無限の、底無しの疑惑の海……。
そう思えば思うほど、そうした戦争哲学のドン底に渦巻いている無限の疑惑の中に私はグングンと吸い込まれて行った。見渡す限りの黒土原……ヴェルダンの光焔……轟音《ごうおん》……死骸の山……折れ砕けた校庭の樹列……そうしてあの美しい候補生……等々々も皆、そうした疑惑の投影としか思えなくなって来た。
そう思い思い私はフト大空を仰いだ。
……あの大空に白く輝いている、割れ口のギザギザになった下弦の月こそは、そうした戦争に対する疑惑の凝り固まった光りではなかったか……氷点下二百七十三度の疑惑の光り……。
底本:「夢野久作全集6」ちくま文庫、筑摩書房
1992(平成4)年3月24日第1刷発行
初出:「改造」改造社
1936(昭和11)年5月号
入力:柴田卓治
校正:kazuishi
2004年6月27日作成
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