して、財産の横領を企てているのじゃないかと疑い得る理由があるのです。その弁護士は非常に交際の広い、一種の世間師という評判です。極《ご》く極く打算的な僕の継母《はは》もこの弁護士にばかりは惜し気もなくお金を吸い取られているという評判ですからね。僕をヴェルダンの要塞戦に配属させたのも、その弁護士の秘密運動が効を奏した結果じゃないかと疑われる位なんです」
 私は太い、長い、ふるえたタメ息を腹の底から吐き出した。最初は不承不承に聞いていたつもりであったが、いつの間にか一も二もなく候補生に同情させられていた。
「成る程……現在《いま》の独逸には在りそうな話ですね。悪謀《わるだくみ》に邪魔になる人間は、戦場に送るのが一番ですからね」
「……でしょう……ですから僕は、僕の財産の一切を妻のイッポリタに譲るという遺言書と一緒に、色々な証書や、家に伝わった宝石や何かの全部を詰め込んだ金庫の鍵を、戦線に持って来てしまったんです。ちょうど妻が伊太利《イタリー》の両親の処へ帰っている留守中に、僕の出征命令が突然に来たのですからね。いつもだと僕の妻が喜ぶ事を絶対に好まなかった継母《はは》が、不思議なほど熱心に妻にすすめて故郷へ帰らせて、非常な上機嫌で駅まで送ったりした態度がドウモ可怪《おか》しいと思っていたところだったのです」
「成る程。よくわかります」
「それだけじゃないのです。私の出征した後で帰って来た妻は、私の母親と弁護士に勧められて、他家《よそ》へ縁附くように持ちかけられているし、妻の両親も、それに賛成している……という手紙が妻から来たのです」
「それあ怪《け》しからんですねえ」
「……怪しからんです……しかし妻は、僕から離別した意味の手紙を受取らない限り、一歩もこの家を出て行かないと頑張っているそうですが……私たちは固く固く信じ合っているものですからね……」
 候補生は一秒の時間も惜しいくらい迅速に、要領よく事情を説明した。恐らく彼が鉄と、火と、毒|瓦斯《ガス》の中で一心を凝《こ》らして考え抜いて来た説明の順序を、今一度、ここで繰返したものらしかったが、そのせいか、こうした甘ったるいお惚《のろ》けが、氷のように切迫した人生の一断面を作って、私の全神経に迫って来たのであった。
「どうぞどうぞ後生ですから、この鍵を極《ごく》秘密の裡《うち》に妻に手渡しして下さい。僕の妻からハインリッヒ伯爵家の主婦の地位と、巨額の財産を奪い取るべく暗躍している者が随分多いのですから……」
 私は思わず襟《えり》を正した。それは立佇《たちど》まっている中《うち》にヒシヒシと沁み迫まって来る寒気のせいではなかった。
 見も知らぬ人間にこうした重大な物品を委托するポーエル・ハインリッヒ候補生の如何にもお坊ちゃんらしい純な、無鉄砲さに呆れ返りながらも、無言のままシッカリと油紙包みを受取った。
「……ありがとう御座います。ドウゾドウゾお願します……僕は……この悩みのために二度、戦線から脱走しかけました。そうして二度とも戦線に引戻されましたが、その三度目の逃亡の時に……今朝《けさ》です……ヴェルダンのX型|堡塁《ほうるい》前の第一線の後方二十|米突《メートル》の処の、夜明け前の暗黒《くらやみ》の中で、この腓《こむら》を上官から撃たれたのです……この包を妻に渡さない間は、僕は安心して死ねなかったのです」
「……………」
「……しかし……しかし貴方《あなた》はこの上もなく御親切な……神様のようなお方です。僕の言葉を無条件で真実と信じて下さる御方であるという事が、僕にチャントわかっています。……どうぞどうぞお願いします。クラデル先生。どうぞ僕を安心して、喜んで祖国のために死なして下さい。眼は見えませぬが敵の方向は音でもわかります。一発でもいいから本気で射撃さして下さい。独逸《ドイツ》軍人の本分を尽して死なして下さい」
 そう云う中《うち》にポーエル候補生は手探りで探り寄って来て、私の両肩にシッカリと両手をかけた。私の軍帽の庇《ひさし》を見下して、マジマジと探るように凝視していたが、イクラ凝視しても、何度眼をパチパチさしても私の顔を見る事が出来ないのが自烈度《じれった》いらしかった。
「……見えませぬ。……見えませぬ。神様のような貴方のお顔が見えませぬ……ああ……残念です……」
 私は思わず赤面させられた。私は自分の顔の怪奇《みにく》さを知っている。それはアンマリ立派な神様ではない……コンナ顔は見られない方がいい……と思った。
「ナアニ、今に見えるようになりますよ。失望なさらないように……」
 候補生は真黒く凍った両手で、私の鬚《ひげ》だらけの両頬をソッと抱え上げた。両眼をシッカリと閉じて頭低《うなだ》れた。その瞼《まぶた》から滴《したた》り落ちる新しい涙の一粒一粒が、光弾の銀色の光り
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