さるぐつわ》を噛ました上で、二千円の貯金の通帳と印形《いんぎょう》を奪って逃走した。アトにはオモチャのピストルを一梃落しておいた。
程なく帰って来た蟹口は、この体《てい》を見て大いに狼狽し、警察に訴えようとしたが、ツル子は私の恥が明るみに出るから厭《いや》だと主張して、とうとう訴えさせなかった。そうして、それから三日ばかり経った頃、
「妾《わたし》は一旦、泥棒に身を穢《けが》された以上、貴方《あなた》のような潔白な、正しい人の妻になる事は出来ません。思い切って死にますから縁のない昔と諦めて下さい。貴方の好きな人と結婚して下さい。妾は人の知らない処に死骸を隠したいのですから、どうぞ警察に届けないで下さい。妾の恥を曝《さら》さないようにして下さい。妾の一生のお願いです。
妾は泣きながら死にます。死んで貴方の幸福を祈ります」
という意味の遺書《かきおき》を残して、真昼間《まっぴるま》、家出してしまった。好人物の蟹口はこの遺書《かきおき》を真面目に信じて、届出《とどけで》なかったらしい。
二人は、それで安心して道行をきめ込み、一旦、山陰地方の乗合《バス》会社に身を潜めたが、二千円の金を費《つか》い果すと大胆にも、昨、昭和八年の夏、又もや東京へ舞い戻って来て、小梅に同棲し、姦夫の戸若は三徳材木店専属のトラックの運転手となっていた。
そこで、それとなく様子を聞いてみると、蟹口運転手は、それ以来スッカリ自棄《やけ》気味となり、大酒を飲み習い、誰、彼の見境《みさか》いなく喧嘩を吹っかけるようになっている。何故だかわからないが戸若という若造を見付けたら直ぐに知らしてくれ。ブチ殺してくれるからと云っている……という運転手仲間の噂話なので、戸若はモウすっかり震え上ってしまった。すこし旅費が出来たら直ぐに都落ちをするつもりでいた。
そのうちに今年の春から幾らかの貯金が出来たので、イヨイヨどこかへ飛ぶつもりになったが、そのお名残《なご》りといったような気持で、ツイこの間の三月の末コッソリ蟹口の家の様子を覗きに行ってみると、裏庭の野菜や菊畑、屋根の南瓜《かぼちゃ》の蔓も枯れ枯れになって、ペンペン草が蓬々《ぼうぼう》と生えている廃屋《あばらや》の中に、泥酔した蟹口がグーグー睡っていた。その瘠せ衰えた髯だらけの恩人の姿を見た時に戸若は……ああ……済まない事をした……と思った。それ以来、後悔の念が高まるばかりで、東京を離れるのさえ気が済まないような気がしていた。
そこへ昨夜、支配人から京浜国道の材木運搬を命ぜられて午後の十時から二回往復したが、最初は子安の近くを通るのが恐ろしくて仕様がなかった。もしや蟹口のトラックに行き合いはしないだろうかと思ってヒヤヒヤしいしい運転して行くところへ、向うから来たトラックがヘッド・ライトを消したから、こちらも直ぐに消したが、その消した瞬間に、蟹口の頑固な顎と、物凄く光る眼が、真正面に見えたのでゾッとしてスレ違った。
よもや気付かれはしまいと思ったが、思い出すたんびに頭の毛がザワザワして仕様がなかったので一旦、材木を積んで深川へ帰ってから、一杯酒を飲んで、モウ一度、往復するために、手拭《てぬぐい》で下顎を覆面して深夜の京浜国道を下った。
川崎の町あかりの中から見おぼえのある子安農場のトラックが出て来るのを見た時には、思わず緊張して鳥打帽を眉深《まぶか》く冠り直した。思い切って全速力を出した。ヘッド・ライトを消したまま猛然とスピードをかけて来るトラックの横をこちらはヘッド・ライトを消さないまま一気に駆け抜けようとしたが、その刹那に鬼のような形相に変った蟹口運転手が、思い切りハンドルを右に廻している姿がチラリと見えたと思う間もなく、轟然《ごうぜん》と衝突してしまった。こちらのトラックの方が新しくて頑固だったので、相手のヤワな車を引っかけて引ずり倒したまま二十|米突《メートル》ほど前進して停車したが、停車すると同時に相手のトラックのデッキに並んだ牛乳が大波のように舞い上って、そこいら中に滝のように降り注いだ事だけを夢のように記憶している。
今朝《けさ》になって正気付いて、病院から警察へ連れて来られて、表のタタキに茣蓙《ござ》を被《かぶ》せたまま置いてある、あの蟹口運転手のメチャメチャになった妖怪じみた死骸を見た瞬間に……壊れた額から飛出《とびだ》した二つの眼球《めだま》が私を白眼《にら》んでいるのに気付いた時に私はモウ一度気が遠くなりかけました。
蟹口運転手は私という事に気付いていたに違いありません。私と刺違《さしちが》えるつもりで、あんな事をしたに違いないと思います。
私は何もかも白状します。どんな罪でも受けます。そうして蟹口さんの怨みを晴らしてもらわなければトテも恐ろしくてたまりません。
妻のツル子に
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