、背後から花嫁の初枝が惚れぼれと見上げていた。栗野博士はそれに気付きながら気付かぬふりをしていた。
「いや。実はなあ。その患者が精神病者《きちがい》らしいでなあ」
「エッ……キチガイ……」
「そうじゃ。玄関に坐って動かぬと云うて来たでな。今日だけは私に委せておきなさい。まだ時間はチット早いけれども、ちょうど良《え》え潮時《しおどき》じゃけにモウこのまま、離座敷《はなれ》に引取った方がよかろうと思うが……あんな正覚坊連中でもアンタ方が正座に坐っとると、席が改まって飲めんでな。ハハハ……」
「……ハイ……」
「私たちもアトから離座敷《はなれ》へチョット行きますけに、お二人で茶でも飲んで待っておんなさい。今一つ式がありますでな」
「……ハ……ハイ……」
 新郎新婦は狭い、暗い処で折重なるようにお辞儀をした。そのままに立って見送っていた。

 玄関の夕暗《ゆうやみ》の中をズウーッと遠くの門前の国道まで白砂を撒《ま》いて掃き清めてある。その左右の青々とした、新しい四目垣《よつめがき》の内外には邸内一面の巴旦杏《はたんきょう》と白桃と、梨の花が、雪のように散りこぼれている。その玄関に打ち違えた国旗と青年会旗の下に、男とも女とも附かぬ奇妙な恰好《かっこう》の人間が、両手を支《つ》いて土下座している。
 頭は蓬々《ほうほう》と渦巻き縮れて、火を付けたら燃え上りそうである。白木綿に朱印をベタベタと捺《お》した巡礼の笈摺《おいずり》を素肌に引っかけて、腰から下に色々ボロ布片《きれ》を継合わせた垢黒《あかぐろ》い、大きな風呂敷|様《よう》のものを腰巻のように捲付《まきつ》けている恰好を見ると、どうやら若い女らしい。全体に赤黒く日に焼けてはいるが肌目《きめ》の細かい、丸々とした肉付の両頬から首筋へかけて、お白粉《しろい》のつもりであろう灰色の泥をコテコテと塗付けている中から、切目の長い眦《めじり》と、赤い唇と、白い歯を光らして、無邪気に笑っている恰好はグロテスクこの上もない。
 今しも台所から出て来たこの家の下男の一作が、赤飯《せきはん》の握飯《にぎりめし》を一個遣って追払おうとするのを、女はイキナリ土の上に払い落して、大きく膨脹《ぼうちょう》した自分の下腹部《したはら》を指しながら、頭を左右に振った。獣《けだもの》とも鳥とも附かぬ奇妙な声を振絞《ふりしぼ》った。
「アワアワアワアワアワ。エベエベエベエベエベ」
「コン畜生。唖女《おしやん》の癖にケチを附けに来おったな。コレ行かんか。殺すぞ」
 一作が薪割用の斧《おの》を振上げて見せると、唖女《おしおんな》は、両手を合わせて拝みながら、蓬々たる頭を左右に振立てた。下腹部《したはら》を撫でて見せながら今一度叫んだ。
「エベ……エベ……エベエベエベ」
 その時に栗野博士夫婦が玄関へ出て来た。
「コレコレ。乱暴な事をしちゃ不可ん。穏やかにして追返さんと不可《いか》ん」
 唖女が急に向直って栗野博士のフロック姿に両手を合わせた。下腹部《したはら》を指して奇声を発し続けた。
「何だ。妊娠しとるじゃないか」
 一作が手拭を肩から卸した。斧を杖に突いてペコペコした。
「ヘエヘエ。これは先生。この唖女《おしやん》はモトこの裏山の跛爺《ちんばじい》の娘で、あそこの名主どんの空土蔵《あきどぞう》に住んでおった者で御座いますが……」
「フウム。まだ若い娘じゃな爺さん」
「ヘエ。幾歳《いくつ》になりますか存じませんが。ヘエ。去年の夏の末頃までこの裏山に住んでおりまして、父親の跛爺の門八は、村役場の走り使いや、避病院《ひびょういん》の番人など致しておりましたが……」
「フーム。村の厄介者じゃったのか」
「ヘエ。まあ云うて見ればソレ位の人間で御座いましたが、それが昨年の秋口になりますと大切な娘のこの唖女《おしやん》が、どこかへ姿を隠しましたそうで、門八爺は跛引き引き村の内外を探しまわっておりますうちに、あの土蔵の中で首を縊《くく》って死んでおりました事が、程経てわかりましたので大騒動になりましてな」
「ウムウム」
「それから後、この唖女《おしやん》の姿を見た者は一人も居りませんので……ヘエ……」
「ふうむ。誰が逃がいたのかわからんのか」
「ヘエ。それがで御座います。御覧の通り唖娘《おしむすめ》の上に色情狂《いろきちがい》で、あの裏山の中の土蔵の二階窓から、山行の若い者の姿を見かけますと手招きをしたり、アラレもない身振をして見せたり致しますので、跛の門八|爺《じい》が外に出る時には、必ず喰物を内に残いて、外から厳重《しっかり》と締りをしておったそうで御座います。それでも門八が帰りがけには、途中《みちなか》で拾うた赤い布片《きれ》なぞを持って帰ってやりますとこの花子|奴《め》が……この娘の名前で御座います……コイツが有頂天も無う喜ん
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