快速船《はやいの》があった。七千噸ばかりの客船《メイル》だったが、コイツが航路《コース》を切り変えて、一かバチかの欧羅巴《ヨーロッパ》行きを思い立ったもんだが、今のエムデンを怖がって行くものがないというので、とりあえず僕が器械の方を引受けて、新嘉坡《シンガポール》まで来たのが忘れもしない、大正三年の九月の十五日……暑い盛りだ。あすこでポートサイドからマルセール直航の男船客ばかりを三百五十何人と上等の紅茶を積めるだけ積んだ訳だが、コイツが無事に地中海へ這入れば、むろん大儲けさ。欧羅巴全体が敵も味方も咽喉《のど》を鳴らして待っている極上《ごくじょう》飛切《とびき》りの紅茶バッカリと、金《かね》ずく[#「ずく」に傍点]を通り越したお客バッカリ満載しているんだからね。紀州の蜜柑船《みかんぶね》どころの騒ぎじゃない。三井の遣る事は凄いよ……そこで聯合《れんごう》艦隊の無電を受けながら、勇敢に印度洋のマン中目がけて乗り出してみるとドウダイ。陸影《おか》を離れてから間もない三日目の、二十三日の朝早く、無電技手が腰を抜かしたまま船橋《ブリッジ》から転がり落ちて来た。……昨夜《ゆうべ》の真夜中にエムデンが突然、向う岸のマドラス沖に現われて、石油タンクの行列を砲撃した。エドワード砲台が泡《あわ》を喰って、闇夜の大砲をブッ放《ぱな》したが、その時には最早《もはや》エムデンは居なかった。三洋丸はそのまんまで行けば、そろそろエムデンの逃路《コース》にぶつかるかも知れない。気を付けろ……といったような無電が、ビーッ……ビ――ッと這入って来たと云うんだ。
 イヤモウ……みんな青くなったの候のって……覚悟の前とか何とか、大きな事を云っていた船長が、日本人の癖にイの一番に慌て出して、全速力《フルスピード》で新嘉坡《シンガポール》へ引返《ひっかえ》すと云い出したもんだ。つまりエムデンの死に物狂いのスピードが、先ず二十七八|節《ノット》で、三洋丸のギリギリ決着が二十三四|節《ノット》だから、見付かったら最後、物が云えないという算盤《そろばん》を取ったんだろう。しかも、それ位の算盤なら何もわざわざ、印度洋のマン中まで出て来て弾《はじ》くが必要《もの》はないのだ。忠兵衛さんじゃあるまいし。大阪を出た時からチャンと見当が付いている筈なんだが、要するに今の無電と一所《いっしょ》に、新規|蒔《ま》き直しの臆病風が
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