てくれたものであった。
相手に出たのは妻の松子だったそうであるが、その時に白鷹夫人から聞いた事情なるものは、女の耳に取って真に肝も潰れるような事ばかりであったと言う。
勿論、姫草ユリ子の言葉にも多少の真実性はあった。彼女は確かにK大耳鼻科にいた事のある姫草ユリ子と同一人には相違なかった。彼女の看護婦としての技術が、驚異に価すべくズバ抜けた天才的なものであった事も事実には相違なかったが、しかし、同時に、実に驚異に価するほどのズバ抜けた、天才的な虚構《うそ》の名人であった事も周知の事実であったと言うのである。
すこし社会的に著名な人物なぞがK大の耳鼻科に入院すると、彼女、姫草ユリ子は彼女独特の敏捷《びんしょう》な外交手腕でもって他人を押し除けて看護の手を尽すのであった。そうしてそのような人々から一も姫草、二も姫草と言わせるように仕向けないでは措《お》かないのであった。その結果、どうして手に入れたものか、そのような患者から貰ったと言う貴重品なぞを、自慢そうに同輩に見せびらかす事が度々であったという。
そればかりでない。彼女はそんな身分のある家族の方々のうちの誰かと婚約が出来た……なぞと平気で言い触らしたりなぞしているかと思うと、おしまいには、やはりズット以前に入院した事のある映画俳優か何かの胤《たね》を宿したから、堕胎しなければならぬ……と言ったような事を臆面もなく看護婦長に打ち明け(?)て、長い事病院を休む。そのほか医員の甲乙《たれかれ》と自分との関係を、自分の口から誠しやかに噂《うわさ》に立てる……と言った調子で、風儀を乱すことが甚しいので、とうとうK大耳鼻科長、大凪《おおなぎ》教授の好意によって諭示退職の処分をされる事になったという。
しかし以前からメソジストの篤信者《とくしんじゃ》であった白鷹久美子夫人は、かねてから彼女のそうした悪癖に対して一種の同情を持っていた。そうして彼女の才能と行末を深く惜しんだものらしく、彼女が首になると同時に自宅に引き取って、あらん限りの骨を折って虚構《うそ》を吐《つ》かないように教育した。キリストの聖名《みな》によって彼女の悪癖を封じようと試みたものであった。
ところが、それが彼女に取っては堪《た》まらなく窮屈なものであったらしい。とうとう無断で白鷹家を飛び出して行方を晦《くら》ましてしまったので、何処へ行ったものであろうと明け暮れ久美子夫人が気にかけているうちに突然、本年の六月の初め頃、ユリ子から電話が掛って来て、今は横浜の臼杵病院にいる。妾も、それから後、虚構を吐くのをピッタリと止めて、臼杵先生から信用されているから、以前の事は、どうぞ助けると思って秘密にして頂きたい……という極めてシオらしい話ぶりであったと言う。
しかし彼女の性格を知り抜いている白鷹夫婦は容易に彼女の言葉を信じなかったばかりでなく、それ以来、一種形容の出来ない不安に包まれていた。またあの女が臼杵家に入り込んで、まことしやかな虚構を吐いて、臼杵家を攪乱《かくらん》しようと思っているに違いない。それにつれてK大や白鷹家の事に就いても、どんな出鱈目《でたらめ》を臼杵先生に信じさせているか解らない……という心配から、夫人が内々で妻の松子に宛てて、臼杵病院の所づけで度々、ユリ子の行状に関するさり気ない問合わせの手紙を出したそうであるが、それは多分、彼女が握り潰したものであろう、一度も返事が来なかった。
白鷹夫人の心配は、そこでイヨイヨ昂《たか》まる事になった。これはもしかしたらあの嘘吐きの名人の言葉を真正面から信じ切っている臼杵家の連中が、白鷹家を軽蔑して全然、取り合わない事にキメているのではあるまいか。しかし、そうかと言って、あんまり執拗《しつこ》い、急迫した手段で、臼杵家に交際の手蔓《てづる》を求めるのも、こっちが狼狽しているようでおかしい……と言ったようないろいろな気兼《きがね》から、いよいよ形容の出来ない、馬鹿馬鹿しく不愉快な不安に陥って行った。殊に気の小さい、神経質な白鷹氏はユリ子の悪癖を極度に恐れているらしく、この頃では夫婦で寄ると触ると、そんな事ばかり話合っていたところへ、きょう主人が臼杵先生にお眼にかかってみると、どうも御様子が変テコだから一応、電話でお伺いしてみろ。臼杵先生は大変にソワソワして昂奮しておられるようだったが、何かまたあの女が余計な事を仕出かしたのかも知れないから、早く電話をかけといた方がいいだろう。ユリ子が取次に出るか出ないか……という主人の言葉だった……と言う久美子夫人の話で、聞いていた妻の松子は、電話口に立っておられないほど、赤面させられてしまったという。
しかし、それでも妻の松子は、同時にタマラないほど不安な気持に包まれてしまったので、なおも勇を鼓《こ》して通話を伸ばして貰いな
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