電車か自動車かわからなかったもんですからね」
そう言ううちに彼女は二、三度、派手な縮緬《ちりめん》の袂を顔に当てたようであったが、それでも若い娘らしいキリッとした態度で、多少憤慨したらしい語気を混交《まじ》えながら、次のような驚くべき事実を語り出した。
私はその時に彼女から聞いた白鷹先生の家庭に関する驚くべき秘密なるものを、ここに包まず書き止めて置く。これは決して白鷹先生の家庭の神聖を冒涜《ぼうとく》する意味ではない。私が同氏の人格をこの上もなく尊敬し、信頼している事実を告白するものである事を固く信じているからである。同時に姫草ユリ子の虚構《うそ》の天才が如何に驚くべく真に迫ったものがあるかを証明するに足るものがあると信ずるからである。普通人の普通の程度の虚構《うそ》では到底救い得ないであろうこうした惨憺たる破局的な場面を、咄嗟《とっさ》の間に閃いた彼女独特の天才的な虚構……十題話式の創作、脚色の技術を以て如何に鮮やかに、芸術的に収拾して行ったか。
私は光と騒音の川のような十二時近くの桜木町の電車通りの歩道を、彼女と並んで歩きながら、彼女の語り続けて行く驚くべき真相……なるものに対して熱心に耳を傾けて行ったのであった。
白鷹氏……きょう会った謹厳そのもののような白鷹氏は、K大耳鼻咽喉科に在職中、姫草ユリ子をこの上もなく珍重し、愛寵した。そうして宿直の夜になると、そうした白鷹氏の彼女に対する愛寵が度々、ある一線を超えようとするのであった。
しかし無論、彼女はそれを喜ばなかった。
彼女の念願は看護婦としての相当の地位と教養とを作り上げた上で、女医としての資格を得て、自分の信ずる紳士と結婚して、大東京のマン中で開業する……そうして相携《あいたずさ》えて晴れの故郷入りをする……と言う事を終生の目的としておったので、故なくして他人の玩弄《がんろう》となる事を極度に恐れた彼女は、遂に絶体絶命の意を決して、この事を直接に白鷹氏の令閨、久美子夫人に訴えたのであった。
然るに久美子夫人は、彼女の想像した通り、世にも賢明、貞淑な女性であった。世の常の婦人ならばかような場合に、主人の罪は不問に付して、当の相手の無辜《むこ》の女性の存在を死ぬほど呪詛《のろ》い、憎悪《にく》しむものであるが、物わかりのよい……御主人の結局のためばかりを思っている久美子夫人は、彼女のこうした潔白な態度を非常に喜んだ。そうして彼女をこの上もなく慈《いつく》しんで、末永く自宅《うち》に置いて世話をして遣りたい。間違いのないようにという考えから、本年の二月以降、下六番町の自宅に、彼女を寝泊りさせるように取り計らったが、これに対してはさすがの白鷹氏も、一言の抗議さえ敢《あ》えてしなかったと言う。
ところが久美子夫人の彼女に対するこうした好意が、端《はし》なくも彼女に職を失わせる原因となった。彼女の看護婦としての優秀な手腕をかねてから嫉視している上に、彼女のそうした過分の寵遇を寄ると触《さわ》ると妬《ねた》み、羨み始めた仲間の新旧の看護婦連中が、とうとう彼女を白鷹助教授の第二夫人と言ったような噂を捏造《ねつぞう》して、八釜《やかま》しく宣伝し始めたので、彼女は、久美子夫人に対して気の毒さの余り、身を退《ひ》く事をお願いすると、夫人も涙ながらに承知して、分に過ぎた心付を彼女に与えたので、ユリ子はさながらに姉と妹が生き別れをするような思いをして、下谷の伯母の宅《うち》に引き取る事になったという。それが本年の五月の初めで、それから方々職を探しているうちに臼杵病院へ落ち着いたのでホッと一息した……と言う彼女の告白であった。
「……ですからこの間から白鷹先生が、どうしても臼杵先生にお会いにならない理由も、あたしにチャンとわかっておりましたわ。妾、きょう白鷹の奥さんにお眼にかかって、今までの気苦労を何もかもお話したのです。もしも臼杵先生と白鷹先生がスッカリ親友におなりになって、ソンナ事情がおわかりになった暁に、白鷹先生に気兼をなすった臼杵先生が、妾にお暇を下さるような事があったらどうしましょうってね……そうしたら奥様も涙をお流しになって、決して心配する事はない。これから先ドンナ事があっても臼杵先生の処を出てはなりません。そのうちに妾から臼杵先生によく頼んで上げますって言う、ありがたいお話でしたの……ですから妾、大喜びの大安心で横浜へ帰って来るには来たんですけど、きょう臼杵先生が白鷹先生にお会いになった時に、白鷹先生がドンナ態度をお執りになるか……如才ない方だから案外アッサリと御交際になるに違いないとは思うんですけど、またよく考えてみると、男の方ってものは、コンナ事にかけてはずいぶん思い切った卑怯な事をなさるものですから……まあ、御免遊ばせ。ホホ……そう思いますと、恐ろしくて恐
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