。
「……ハハア。知りませんがね。だまって出て行きましたから……」
と即答をしましたが、その刹那《せつな》に……サテハこの男が姫草ユリ子の黒幕だな。何かしら俺を脅迫しに来やがったんだな……と直感しましたので直ぐに……糞《くそ》でも啖《く》らえ……という覚悟を腹の中で決めてしまいました。しかし表面《うわべ》にはソンナ気振も見せないようにして、平凡な開業医らしいトボケ方をしておりました。……姫草ユリ子の行方を知っていないでよかった。知っていると言ったら直ぐに付け込まれて脅迫されるところであったろう……と腹の中で思いながら……。
相手の紳士はそうした私の顔を、その黒い、つめたい執念深い瞳付《めつき》で十数秒間、凝視《ぎょうし》しておりましたが、やがてまた胴衣《チョッキ》の内側から一つの白い封筒を探り出して、恭《うやうや》しく私の前に置きました。……御覧下さい……と言う風に薄笑いを含みながら……。
白い封筒の中味はありふれた便箋《びんせん》でしたが、文字は擬《まが》いもない姫草ユリ子のペン字で、処々汚なくにじんだり、奇妙に震えたりしているのが何となく無気味でした。
[#ここから1字下げ]
「白鷹先生
臼杵先生
妾《わたし》は自殺いたします。お二人に御迷惑のかからないように、築地の婦人科病院、曼陀羅《まんだら》先生の病室で自殺いたします。子宮病で入院中にジフテリ性の心臓麻痺で死んだようにして処理して頂くよう曼陀羅先生にお願いして置きます。
白鷹先生 臼杵先生
お二人様の妾に賜《たま》わりました御愛情と、その御愛情を受け入れました妾を、お憎しみにもならず、親身の妹同様に可愛がって頂きました、お二人の奥様方の御恩を、妾は死んでも忘れませぬでしょう。ですから、その奥様方の気高い、ありがたい御恩の万分の一でも報いたい気持から妾は、こんなにコッソリと自殺するのです。わたくしの小さい霊魂はこれから、お二人の御家庭の平和を永久に守るでしょう。
妾が息を引き取りましたならば、眼を閉じて、口を塞《ふさ》ぎましたならば、今まで妾が見たり聞いたり致しました事実は皆、あとかたもないウソとなりまして、お二人の先生方は安心して貞淑な、お美しい奥様方と平和な御家庭を守ってお出でになれるだろうと思いますから。
罪深い罪深いユリ子。
姫草ユリ子はこの世に望みをなくしました。
お二人の先生方のようなお立派な地位や名望のある方々にまでも妾の誠実《まごころ》が信じて頂けないこの世に何の望みが御座いましょう。社会的に地位と名誉のある方の御言葉は、たといウソでもホントになり、何も知らない純な少女の言葉は、たとい事実でもウソとなって行く世の中に、何の生甲斐《いきがい》がありましょう。
さようなら。
白鷹先生 臼杵先生
可哀そうなユリ子は死んで行きます。
どうぞ御安心下さいませ。
[#ここで字下げ終わり]
昭和八年十二月三日[#地から1字上げ]姫草ユリ子 」
この手紙はすでに田宮特高課長に渡しました実物の写しで、貴下にお眼にかけたいためにコピーを取って置いたものですが、これを初めて読みました時も私は、何の感じも受けずにいる事が出来ました。依然として呆《あき》れ返ったトボケた顔で、相手の鋭い視線を平気で見返しながら問いかけました。
「ヘエ。貴方《あなた》がこの手紙の曼陀羅先生で……」
「そうです」
相手は初めて口を開きました。シャガレた、底強い声でした。
「モウ死骸は片付けられましたか」
「火葬にして遺骨を保管しておりますが……死後三日目ですから」
「姫草が頼んだ通りの手続きにしてですか」
「さようです」
「何で自殺したんですか」
「モルフィンの皮下注射で死んでおりました。何処《どこ》で手に入れたものか知りませんが……」
ここで相手は探るように私の顔を見ましたが、私は依然として無表情な強直を続けておりました。
曼陀羅院長の眼の光が柔らぎました。こころもち歪《ゆが》んだ唇が軽く動き出しました。
「先月……十一月の二十一日の事です。姫草さんはかなり重い子宮内膜炎で私のところへ入院しましたが、そのうちに外で感染して来たらしいジフテリをやりましてね。それがヤット治癒《なお》りかけたと思いますと……」
「耳鼻科医《せんもんい》に診《み》せられたのですか」
「いや。ジフテリ程度の注射なら耳鼻科医《せんもん》でなくとも院内《うち》で遣《や》っております」
「成る程……」
「それがヤット治癒りかけたと思いますと、今月の三日の晩、十二時の最後の検温後に、自分でモヒを注射したらしいのです。四日の……さよう……一昨々日の朝はシーツの中で冷たくなっているのを看護婦が発見したのですが……」
「付添人も何もいなかったのですか」
「本人が要《い》らないと申しましたので…
前へ
次へ
全57ページ中2ページ目
小説の先頭へ
文字数選び直し
夢野 久作 の一覧に戻る
作家の選択に戻る
◆作家・作品検索◆
トップページ
登録
ご利用方法
ログイン
携帯用掲示板レンタル
携帯キャッシング